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伏見桃山:歴史と水と酒の街

伏見桃山城
▲伏見のシンボルとして、1964(昭和39年)建設された伏見桃山城(鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣)は、伏見桃山城運動公園(京都市伏見区桃山町大蔵)の一角にそびえ立つ。城の内部は現在公開されていないが、周囲は公園として整備されており、城の外観を眺めながら散策が楽しめる(公益財団法人京都市体育協会が管理)。この城の南側に位置する明治天皇陵のあたりに、かつて豊臣秀吉が再建した伏見城の本丸があったとされている。

「桃山」のいわれ

織田信長、豊臣秀吉が権力の座にあった織豊(しょくほう)時代は、日本の歴史上で「安土桃山時代」(1573年から1603年)として知られています。その「桃山」のいわれは、伏見城の廃城後、城址の山一帯に桃の木が植えられ、桃の花見の名所となったことにちなみます。桃の花里として知られたのは100年ほどの間でしたが、歴史の重要地として「桃山」の名が広く響いたことから、後世に認識されるようになりました。1912年(大正元年)、伏見城のあった古城山は明治天皇の陵墓となりました。「伏見桃山陵」として、現在も御陵への参拝、深々とした森林が広がる一帯の自然散策へと人々をいざなう名所となっています。最寄りのJR奈良線「桃山」、近鉄京都線「桃山御陵前」、京阪本線「伏見桃山」などの駅名にも、「桃山」の名が冠されています。

伏見鑑
▲江戸時代の伏見の名所を紹介した『伏見鑑』(ふしみかがみ、月桂冠史料室・蔵)に描かれた「桃山」の様子。<伏見の町の東に有、南北十町余り東西三四町或は五六町の間、数億万株の桃花、山野に充て欄漫たり、異国は知らず凡日本のうちにかくのごとき桃花の多き所又有べからず・・・>と紹介されている。安永年間(1772~1780年)の発行。

伏見城

豊臣秀吉は1592年(文禄元年)、最初の伏見城を指月の岡(京都市伏見区桃山町泰長老)に築きました。その後の度重なる伏見城の造営によって、東西4キロ、南北6キロの城下町が形成されました。人口は数万とも言われるほどに膨れ上がり、江戸・大坂・堺に次ぐ規模となる大都市へと発展、政治の中心地として当時の首都となったのです。伏見の中心には、諸大名の武家屋敷が城を取り巻くように居並び、整然とした美しい街並みを形成していました。城下町の形成と共に、宇治川の堤を付け替えて淀川・桂川と結んだことで港町として発展していきます。堤の上には街道を通し、大坂城と結ぶ文禄堤には京街道を走らせ、さらに西国街道・大和街道・大津街道、京の町とを結ぶ竹田街道・伏見街道など主な街道を伏見に通じるようにしました。こうして伏見の街は、京への玄関口、奈良、大坂を結ぶ水陸交通の要衝となりました。

武家屋敷の西側の地区では商人や職人などが業を営み、武士たちの御用に預かっていました。この中には酒造業者も含まれ、城下町の酒の需要に応えていました。この頃を契機に、都市としての発展に、酒造りに適した水の豊かさが相まって、酒産業が集積していったのです。

伏見櫓
▲伏見城が廃城となったのは1624年(寛永元年)。廃城により、天守閣が淀城に転用されたのをはじめ、櫓(やぐら)や城門、石垣などが、各地の城閣や社寺に移転されている。伏見城の面影を偲ぶ代表的な建物として、1628年(寛永5年)、江戸城に移築されたと伝えられる伏見櫓(ふしみやぐら、写真)があり、現在、皇居外苑から望む二重橋(正門石橋とその奥にある正門鉄橋)の先にその美しい姿を見ることができる。京都伏見に現存する伏見城の遺構としては、御香宮神社の神門などが知られている。

御香宮神社

御香宮神社(京都市伏見区御香宮門前町)は、伏見全町の総氏神として地域の人たちに崇敬されており、安産の神様とされる神功皇后が祀られています。もともとは「御室神社」と称されていました。

本殿正面:極彩色の龍

862年(貞観4年)9月、香りのよい清水が湧き出し、この水を飲んで病気が治癒するなどさまざまな効能が現れたことにより、清和天皇から「御香宮」の名を授けられました。現在、桃山丘陵からの伏流水を汲み上げ、本殿脇で流しており、その清水に触れることができます。

御香水井戸

伏見城の正門となる大手門から続く大手通り。近鉄・桃山御陵前駅のあたりから東側を見上げると朱塗りの大鳥居が、大手通りをまたいでそびえ立っています。伏見城の石垣を用いているという石積みの塀に沿って進むと、御香宮神社の神門に至ります。この神門は伏見城西大手門の遺構であり、国の重要文化財に指定されています。

御香宮神社の神門

参道の正面に位置する拝殿は割拝殿形式で、本殿への通路をまたいで中央部が開口しています。本殿や拝殿には、金鶏や銀鶏、孔雀、象、虎などの彫像が極彩色に塗り直して復元され、その装飾が目を惹きます。割拝殿の正面にも、鯉の滝登りが描かれています。

極彩色

この御香宮、豊臣秀吉が伏見城を築城した1594(文禄3)年に、大城郭の北西側、鬼門の方位へと移築されました。秀吉時代にお宮があった場所は、現在「古御香宮」と称される神域となっています(京都市伏見区深草大亀谷古御香町)。それが1598(慶長3)年に秀吉が没した後、徳川家康により再びもとの場所へ還幸され、1605(慶長10)年、現在の本殿が建てられました。伏見の地で御香宮は、移り行く権力者や武人たちの守護神として尊崇され続けました。

三ツ葉葵の定紋
▲拝殿の棟瓦などには、徳川家の三ツ葉葵の定紋が見られる。

「豊国社」(左写真)と「東照宮」(右写真)
▲御香宮本殿東側には、豊臣秀吉ゆかりの「豊国社」の末社が鎮座している(左写真)。一方で、権力争いの只中で拮抗していた徳川家康を祀った「東照宮」も、同じ境内の本殿西側に祀られている(右写真)。豊国社の方は、徳川時代を越え、伏見城築城300年にあたる1895(明治28)年を期して造営、ようやく御香宮神社の境内に祀られた。

伏見に集積した酒造業

1635年(寛永12年)には、参勤交代の制度が発足、西国の大名はすべて伏見に逗留して行列を整え、江戸へ向かうこととなりました。月桂冠本社界隈から西側に続く南浜通りに沿って大名が宿泊する本陣や家臣のための脇本陣が出来、旅籠や船宿が軒を連ね、各種運輸業者が業を営んでいました。京街道には、伏見、淀、枚方、守口の宿(しゅく)が置かれ、淀川には三十石船が就航、伏見の街は往来する人並みで賑わい、物資の流れも活発になっていきました。その中で、酒の需要も旺盛となり、酒造業者が多数集積しました。

笠置屋徳利
▲月桂冠が創業した江戸期ゆかりの遺物。当社の所在する「ふしみ」、1637年(寛永14年)創業当時の屋号「かさぎや」と書かれた陶製の徳利。

宿場町、港町としての再生により、伏見の酒は更なる発展への歩みを進めていきました。ちょうどその頃、1637(寛永14)年に月桂冠は、城下町の外濠に面した南浜界隈で創業しました。初代の大倉治右衛門の出身地、京都府南部の笠置(かさぎ)にちなんで屋号を「笠置屋」とし、酒銘は「玉の泉」と称していました。

玉の泉
▲樽の正面を飾る酒銘入り印菰のデザインひな形。1637(寛永14)年、創業当時からの「玉の泉」の酒銘を中央に大きく記している。

その直後の1657(明暦3)年、伏見の造り酒屋は83軒(約15,000石)を数えるようになりました。江戸期の伏見酒は地酒として、主に旅客や地元の人たちに飲まれましたが、1990年代に入り、当時、全国に広がりつつあった鉄道網に乗せ、販売先を東京はじめ全国に拡大、主産地のひとつとして地位を確立していったのです。

勘定帳
▲当社に残る最古の勘定帳。1718(享保3)年に記帳を開始した当時のもので、酒造業の決算帳簿としても最古の部類に入る。

(伏見探訪「稲荷と桃山」に関する参考文献)

  • 京都平安文化財『伏見城跡(指月城)発掘調査 現地説明会資料』(2015年6月20日)
  • 京都一周トレイル会 『京都一周トレイルコース公式ガイドマップ東山』 京都市産業観光局観光MICE推進室 (2014年11月)
  • 林屋辰三郎 『桃山』 京都桃山ライオンズクラブ (1976年10月15日)
  • 伏見稲荷大社付属講務本庁 『神奈備 稲荷山、祈りの山』 別冊大伊奈利 第2版(2015年5月15日)
  • 山本真嗣・編 『再版 伏見鑑上下巻』 桃高史学研究部 (1974年4月1日)
  • 山本真嗣 『伏見くれたけの里』 京都経済研究所 (1988年)
  • 山本真嗣 『京・伏見歴史の旅』 (新版) 山川出版社 (2003年)

当コーナーに使用した意匠は、伏見稲荷大社(京都市伏見区深草藪之内町)、御香宮神社(京都市伏見区御香宮門前町)の許可を得て、月桂冠が撮影した画像を含んでいます。

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