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昭和初期のチラシ▲昭和初期のチラシ。家族の食卓のイラストとともに、「一家団欒のお楽しみ 御晩酌の卓上に この一杯ありてこそ」と記されている

日本の飲酒文化
神祭り、食文化の洗練、季節の移り変わりの中で嗜まれてきた酒

酒の産業を知る - 酒文化論・技術論

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日本では、昔から干ばつ、雷雨、台風などをひき起こす恐ろしい神々をしずめ、先祖の霊を慰めるために、酒を造り、神々に供え、その神の嘗めた酒をみんなで嘗会(なむりあい、相嘗の神事、現在は「直会」(なおらい)とよばれている)し、少しでも神に近づこうとした。
こうして、酒は神々と人々が交流するときの最高の食べものであった。いまも毎年秋に宮中で行われる新嘗祭(にいなめまつり、新穀感謝のまつり)や天皇即位の年にだけ催される大嘗祭(おおなめまつり)ではこれが最も原初的な形で伝わっている。
また、酒は、冠婚葬祭のような通過儀礼によって、古い状態をたちきり、新しい世界へと変身するセレモニーの際に飲むものであり、そのたびに造られ、飲まれてきた。これらは、人の集まりを待ってそのたびに造られたところから「待ち酒」(まちざけ)とよばれ、しぼりたての「生酒」であった。日本人は古くからフレッシュさを好んだのである。

食文化と共に発展していった酒文化

8世紀、『万葉集』(630年~760年)に書かれた山上憶良の有名な「貧窮問答歌」(ひんきゅうもんどうか)の一節に「堅塩(かたしお)をとりつづしろひ、糟湯酒(かすゆざけ)うちすすろいて・・・・・・」と、塩をさかなに、酒糟(さけかす)を湯でといて飲む庶民の姿が歌われている。当時すでに貴族たちはもろみを搾った「澄酒」(すみざけ)を飲んでいた。また大昔の「酒の菜」は「塩」と「米の飯」だったことは、いまも「酒」と共に神に供えられる「塩」と「米」からもわかる。
その後、鎌倉時代から室町時代にかけて、京都や鎌倉などの都市では、酒をつくり、人々に売ったり、飲ませたりする「酒屋」が発生、酒は、それまでの「ハレの日の特別な食べもの」から「ケの日の常用品」へと変身、「嗜好品」としての性格が次第にクローズアップされていった。また、食生活が豊かになるにつれ、いろいろな「酒菜」(さかな)が生まれ、平安貴族の間では、一献目の肴としてあわびの干物、二献目は何、というようなしきたり「三献の儀」が生まれ、そうした「献立」が室町時代の「料理」へと発展していった。
酒だけでは、ややもすると栄養が不足するおそれがあるだけに、こうして、さまざまな食べものとの組み合わせの中で飲まれ、肴や料理への関心が高まるようになったことは、栄養の面からもきわめてよい結果を生むことになった。とくに室町時代から江戸時代にかけては、精進料理、本膳料理、懐石料理、会席料理などが次々とあらわれ、酒と料理は、互いに影響しあいながら、次第に洗練された風味をつくりあげていった。
京の公卿たちは、花に酔い、月を愛で、「花鳥風月」を「さかな」に酒を楽しむという雅びな風流を生み、それがまた、江戸っ子の粋な遊びの酒文化へと発展していった。

縁側

季節のうつろいと共に嗜まれた酒

さらに、燗をして酒を飲むということが始められたのは平安時代からで、朝延のしきたりとして重陽の節句(9月9日)から3月3日の節句までの寒い間、貴族たちは暖をとる目的で酒を暖めた。このしきたりのおかげで、燗をすることによって、日本酒の風味がいっそうひきたつことが知られるようになり、その後の酒質の向上と相まって燗の風習は次第に定着していった。
ただ、庶民までが燗酒を飲むようになったのは江戸時代も元禄になってからのことだといわれ、それが、全国的に普及するのは、さらにおくれて、漸く明治になってからのことである。

新技術の活用によって広がった酒の楽しみ

最近、大幅な技術開発によって四季醸造が復活、無菌の「生酒」も商品となり、万葉時代から親しまれてきた「生酒」がいつでも飲めるようになった。これによって、冷やでのさわやかな生酒の風味と、燗をしたらときのまったりとした熟成酒の味わいとを、共に楽しめるようになった。 いま我々が味わう日本酒の風味は、二千年もの酒の歴史と文化が創りあげてきたもの。和歌や俳句を生み、能や歌舞伎を育てた日本人の繊細な感性と、四季折々の微妙に変化する日本の風土によって育まれ、さらに、たえず創造と革新をくりかえしてきた酒づくり技術の進歩によって、その品質は時代と共に変化しつづけた。

生酒

【出典】
  • 栗山一秀 「世界の酒」 『アルコールと栄養』 光生館 (1992年)
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