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大倉家本宅 ▲酒蔵の町を象徴する大倉家本宅は、第八代目当主・大倉治右衛門の時代、1828年(文政11年)に酒蔵兼居宅として建造。京都市内では最大規模に属する町屋とも言われており、昔ながらの酒屋の佇まいを残している。表構えには、虫籠窓(むしこまど)、太めの木材を組み合わせた酒屋格子(さかやごうし)が見られる

月桂冠の創業

京都・伏見を訪ねる - 酒どころ京都・伏見

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1637年(寛永14年)、月桂冠の初代・大倉治右衛門は、木津川の上流、笠置の里から伏見に出て来て、旅客で賑わう舟着場の京橋と目と鼻の先の浜辺に居を構えました。この創業の場所は旅人の往来する街道筋に面し、その横を濠川が滔々(とうとう)と流れ、また、酒造業として何より大切な、良質で豊富な地下水にも恵まれていました。
その清冽な地下水は、伏見の4ヶ所にある当社酒蔵の下を今も流れつづけ、私共はそれを汲みあげ、酒を造っています。
初代・治右衛門は、笠置の里から出てきたということで、屋号を「笠置屋」(かさぎや)と定めました。そして「円満と向上」を表わす笠置星の印紋を刻んだ鬼瓦を、大屋根に掲げたのでした。酒の名前は「玉の泉」と致しました。「たま」は「いのち」を表わすといいますが、酒を「命の泉」にたとえた創業者の「心意気」といいますか、「気概」というものをひしひしと感じます。

室町時代の大規模な酒屋跡▲大倉家本宅の大屋根に上げていた鬼瓦(現在、月桂冠大倉記念館に展示)の正面中央には、当社の前身「笠置屋」のマークが入っている。丸は円満、右上がりの斜め線は進取の志を表すと伝えられてきた。別の紋入りの瓦には、「文政十一年 子六月吉日」の銘が入っており、建造年が1828年(文政11年)であることが判明した

伏見酒苦難の時代

笠置屋は、その後250年もの間、伏見の地酒として、営々とその業に励んで参ったわけですが、その間、伏見奉行を通し、酒屋に対する幕府の制約がいろいろと出て、酒を造ったり商売したりするのにも大変苦しい時代が続きました。このため、1657年(明暦3年)には83軒もあった伏見の同業者も、幕末には27軒にまで減ってしまうという有様でした。
そうしたきびしい情勢のなかにあって、笠置屋の、初代から10代・治右衛門に至る歴代当主は、よくそれに耐え、さらに酒造家仲間でも、年寄、行事、惣中代など数々の役職について活躍、幕末に近づくにつれ、むしろその業績を伸ばしていったほどでした。

勘定帳▲当社に現存する最古の勘定帳。1718年(享保3年)に記帳を開始した当時のものである。以来積み重ねてきた記録は、幕府が酒造りを制限する減醸令や鳥羽伏見の戦いの戦災などをくぐり抜け、連綿と経営活動を継続させてきた証とも言える

鳥羽伏見の戦いの難から免れ現在に継続

1868年(明治元年)、正月2日の夜から勃発した「烏羽伏見の戦」は、笠置屋にとっても、まさに家運を左右する一大変事でした。笠置屋からほど近い伏見奉行所に陣を敷いた新選組や会津藩などの幕府連合軍と、御香宮東方の善光寺に陣をかまえた薩長連合の官軍が砲火を交え、市街白兵戦、町家の焼払いなどによって大坂町から京橋・舟着場まで、そのほとんどが全焼してしまいました。
幸いにも、笠置屋だけは、奇跡的にその難を免れたのです。現存している酒蔵兼居宅は、1828年(文政11年)、第八代の治右衛門が建築したもので、酒蔵の町・伏見を象徴する建造物として現在もその中心的役割を果たしています。

応龍水▲手動式の消防ポンプで応龍水または龍吐水とも呼ばれている。本体中央に彫り込まれた笠置屋のマークに黒漆が塗られており、横面には焼印で1866年(慶応2年)を示す銘が記されている。その2年後の1868年に勃発した鳥羽伏見の戦で、伏見の街は戦火に包まれ、近隣の船宿や町屋の多くが焼失した。大倉家本宅は辛うじて罹災を免れた。この応龍水を使って延焼を防いだのかもしれない

【出典】
  • 栗山一秀「月桂冠大倉記念館」『酒史研究』第6号、日本酒造史学会(1988年9月)
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