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玉の泉 ▲1637年(寛永14年)、月桂冠の前身となる「笠置屋」創業当時からの酒銘「玉泉」と共に、水流に浮かぶ桃が描かれ、「愛児得萬寶」の文字が脇に付記されており、桃太郎伝説にちなんだデザイン

酒どころ伏見―笠置屋の歴史―

京都・伏見を訪ねる - 酒どころ京都・伏見

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古い歴史を持つ伏見の酒造りは、時代とともに盛衰を繰り返します。江戸時代初期創業の「笠置屋」は現代までの360余年、時代の流れを敏感に読み取り、守りと攻めの経営を的確に行い、酒造りの努力を怠らず、伏見の地酒を日本を代表する名酒へと育てます。
著者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。
出典: 『全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記―ふるさとの人と知恵シリーズ(26)京都』 社団法人農山漁村文化協会 (1998年)

伏見の酒造りのはじまり

日本酒は、私たちの祖先が遠い昔から育てあげてきた文化の結晶です。日本の酒造りは稲作が伝わったとされる縄文時代後期から始められ、長い歴史を経て人々の工夫が重ねられてきました。
伏見の酒造りの歴史も大変古いと考えられています。
太古の京都は、琵琶湖より一回り大きな湾だったのですが、大地の隆起によって水が引き、南に「巨椋池(おぐらいけ)」という大きな池を残し、その大部分は盆地に変わっていきました。
こうしてできた太古の京都盆地は、至る所に沼沢地が残っていました。古代人たちは盆地周辺の扇状地や山麓地帯に住み始めました。稲荷山(いなりやま)から桃山にかけての東の山麓地帯もそうした集落地の一つでした。
それから数万年が経過し、稲作がこの集落地帯へ伝わってきました。このことは戦後発掘された稲荷山西側の「深草遺跡」や山頂の「古墳群遺跡」によって証明されています。
5世紀に入ると、最大の渡来氏族といわれた秦人(はたびと)が京都盆地に移住してきて、盆地の西側の嵯峨の太秦(うづまさ)と、東の伏見の一帯に、それぞれ大きな拠点を築きました。彼らは古くからこの地域に生活していた人々よりはるかに進歩した技術、たとえば、養蚕・織物・工芸・陶業・土木技術などをもたらし、そして酒造りの技法にも長じていました。したがって、伏見では、この頃から良質の酒が造られるようになったと想像されます。
事実、8世紀末に平安京が造営され、その朝廷の酒を造る所として大内裏(だいだいり)に造酒司(みきのつかさ)が設けられたとき、その実務にたずさわったのは、「酒戸」(しゅこ)とよばれる、伏見や嵯峨の酒造技術集団だったといわれています。
10世紀の初めになると、御堂関白(みどうかんぱく)・藤原道長の孫、伏見修理大夫・橘俊綱(たちばなのとしつな)は,伏見丘陵の最南端、指月(しげつ)の丘に、風光明媚な「伏見山荘」を造りました。巨椋池を見渡すそのすばらしい景観によって、伏見という所は都の人々に注目されるようになりました。それより数百年後、天下人となり、貴族たちとも親しくなった秀吉もこの話を伝え聞き、伏見城造営を思い立ったともいわれています。
鎌倉時代になると、酒を造って売る酒屋という商売が始まり、室町時代には、柳酒(やなぎざけ)に代表される京都の酒屋が大いに栄えました。応永33年(1426年)の古文書に、洛中洛外(みやこの内外)347軒の酒屋の名が記され、伏見は嵯峨とともに、洛外で酒を造る所として名があげられています。

<用語解説>

秦人(はたびと)
古代の渡来系有力氏族。はじめは数々の技術をもって朝廷に仕え、秦造(はたのみやつこ)と称しました。一族は幾内(きない、関西地方)に広がり、朝廷の財政にも関与しました。
大内裏
(だいだいり) 平城京(へいじょうきょう)や平安京(へいあんきょう)における宮城のこと。平安京は東西八町(約872m)、南北十町(約1000m)、その中に諸官庁がありました。皇居だけを内裏といいます。
藤原道長(ふじわらみちなが)
平安時代中期の公卿(くげ。966~1027)。兄達の死後、一族の長者となり、娘彰子(しょうし)ら5人を入内(にゅうだい。皇后などになるために内裏に入ること)させ、3代にわたり、天皇の外戚となり、摂政、太政大臣となって藤原氏の全盛時代を出現させました。

伏見桃山城▲伏見のシンボルとして、1964(昭和39年)建設された伏見桃山城(鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣、京都市伏見区桃山町大蔵)。この城の南側に位置する明治天皇陵あたりに、かつて豊臣秀吉が再建した伏見城の本丸があったとされる

伏見城と伏見の酒

その後、貴族たちの衰退と共に再びさびれ、近隣九ケ村の中心地にすぎなかった伏見に、豊臣秀吉が、豪華絢爛の伏見城を築きました。今から400年前のことです。その最大の狙いは、京の入口であり、また大阪、奈良と京とを結ぶ水路、陸路の要(かなめ)でもあった伏見を押さえることにあったと思われます。その周辺には、60余州の諸大名の屋敷が並び、西側には町人の町並みをつくりました。城下町の広さは東西4キロ、南北6キロにおよび、その人口は数万人に達し、京・大阪・堺(大阪府)に次ぐ大変大きな町となりました。現在の伏見の町は、このときの城下町によってほぼその基礎が築かれています。
秀吉は城をつくるため、淀川を巨椋池から切り離し、城山の真下へ迂回させ、その一部を町の中に引き入れ、城の外堀とするなど河川の大改修を行いました。こうした水利の改善はその後の伏見の発展に大きく役立ちました。

豊臣秀吉時代の伏見城下町図(模写版)▲豊臣秀吉時代の伏見城下町図(模写版)

現在も、ほとんどの酒蔵は、この濠川(ほりかわ)に接して建てられ、明治の終わり頃までは、米・薪炭・樽材などの原材料から、酒樽まで、すべてがこの濠川を上下する船で運ばれていました。伏見城は30年後、徳川幕府によってとりこわされ、二条城その他へ移築され、大名屋敷も次々と取り払われていきました。しかし町並みと水運は残されたため、伏見は、京・大阪・大津ヘの交通の要となり、港町、宿場町、そして京の玄関口として再びよみがえる兆しをみせ始めました。
とくに、淀川三十石船に代表される伏見と大阪を結ぶ過書船(かしょぶね)が増え、角倉了以(すみのくらりょうい)がつくった高瀬川の水運も盛んになり、再びはげしく人々が往来するようになりました。
寛永12年(1635年)、参勤交代の制の実施によって、西国大名(さいごくだいみょう)はすべて伏見にしばらく逗留せねばならぬことになりました。伏見に4つの本陣(ほんじん)ができ、馬借(ばしゃく)、車借(しゃしゃく)をはじめ、飛脚間屋(ひきゃくどんや)・運送問屋・米問屋・材木問屋が軒を接し、舟頭町ができ、舟宿がひしめくようになって、港町・伏見は繁栄の道を歩み始めました。
こうした状況の下で、酒の需要も、酒造家の数も増加し始め、酒造免許にあたる「酒造株」が、はじめて制定された明暦(めいれき)3年(1657年)には、伏見の酒造家は83軒、その生産高は1万5千石余りに達していました。

<用語解説>

豊臣秀吉
安土桃山時代の武将(1536~1598)。尾張国(おわりのくに、愛知県)の人。織田信長(おだ・のぶなが)に仕え、信長の死後、明智光秀(あけち・みつひで)を討ち、東北から九州に至る日本全国を平定、天下統一を達成しました。また難攻不落といわれた大阪城、豪華絢爛たる伏見城をつくり上げました。
淀川
琵琶湖を源とする宇治川に、北からの鴨川、桂川、南からの木津川を合流し、大阪平野を南西に流れ大阪湾に流入する川。全長75キロ。
過書船(かしょぶね)
過書(通行許可書)を持つ船。江戸時代京都の宿次過書奉行の支配のもと、淀川の貨客輸送に就航した川船。
角倉了以(すみのくらりょうい)
安土桃山時代から、江戸初期にわって活躍した商人、土木事業家(1554~1614)。安南(あなん、ベトナム)に船を出して巨利を得、大堰川(おおいがわ。桂川)、富士川、高瀬川など水路の開発、改修に大きく貢献しました。
高瀬川
京都の二条から伏見に至る運河。淀川に通じ、京阪間の運送路として、明治末年までさかんに利用されました。慶長16年(1611)角倉了以が幕府に出願、19年に完成。
参勤交代(さんきんこうたい)
江戸幕府大名政策の一つとして、全国の諸大名を江戸と領国とに一定期間ずつ交代で居住させる制度。寛永12年(1635)、「武家諸法度(ぶけしょはっと)」改正で制度化されました。
本陣
江戸時代、参勤交代の大名や貴人が宿駅で宿泊する公的な宿泊所。
馬借(ばしゃく)、車借(しゃしゃく)
中世から近世に活躍した運送業者。馬を使うのを馬借、車を使用するのを車借という。京都や奈良にむけて生活物資を搬入する港など、交通の要所にありました。

笠置屋(かさぎや)の創業

それより前、寛永14年(1637年)、初代・大倉治右衛門(おおくら・じえもん)は、木津川の上流、笠置の里(今の京都府相楽郡笠置町)から伏見に出てきて、旅客でにぎわう舟着場の京橋と目と鼻の先の南浜の馬借前(ばしゃくまえ・いまの本材木町)というところに居を構え、酒造りを始めました。
この創業の場所(現在の大倉家本宅の所在地)は、旅人の往来する街道筋に面し、また酒造業として何より大切な、良質で豊かな地下水にも恵まれていました。その清冽(せいれつ)な地下水は、今も酒蔵の下を流れつづけています。この地を選んだことは、まさに初代の先見の明でした。
初代・治右衛門(じえもん)は、このとき、まだ23歳の青年でしたが、笠置荘の大倉善右衛門家より分家してきたということで、屋号を「笠置屋(かさぎや)」、酒の名前を「玉の泉(たまのいずみ)」と定めました。

「笠置屋治右衛門」の文字が見られる木製の印章▲「笠置屋治右衛門」の文字が見られる木製の印章。「治右衛門」の名は、伏見大倉家で第10代まで襲名してきた。明治期の11代目は幼名の恒吉を名乗り、現当主は第14代目にあたる

笠置屋の酒

大倉家の数多くの古文書の中に、享保3年(1718年)より明治26年(1893年)に至る、約170年間にも及ぶ「勘定帳(かんじょうちょう)」が現存しています。これは、現在の「貸借対照表」に近いもので、資産として酒、米、その他もろもろの品および金銀銭を計上、負債として諸商人などからの預かり銀高を計上し、差し引きとして純資産と利益を計算しています。酒造家の勘定帳としてはきわめて古い事例に属するもので、これによってその間の、おおよその経営状態も知ることができます。
そこには酒、原料米、味噌、醤油など、いろいろな品物の在庫やその対価、金銭の出し入れなども書かれていますが、とくに、街道に面した酒屋として、ずいぶんといろいろな酒を売っていたことがわかります。
新酒(しんしゅ)、古酒(こしゅ)、合酒(あいしゅ)、煮込(にこみ)、二度煮(にどに)、おり酒あるいは寒酒(かんざけ)、春酒(はるざけ)それに酒粕で造る焼酎、その焼酎を利用して造る味醂(みりん)、さらに、その焼酎と味琳から造る南蛮酒など、驚くほどの種類の酒が記されています。なかでも南蛮酒は当時の京の名物ともなっていたようです。
笠置屋はまた酒の御所御用株(ごしょごようかぶ)を持つ「禁裡(きんり)御用商人」であり、江戸後期から禁裡御所や仙洞御所に出入りしていました。
今から320年ほど前、寛文年間(1661~1673)の酒造りの模様を画いた絵馬には、米を蒸すこしき、もろみを搾(しぼ)る酒槽(さかぶね)、出荷のための酒樽(さかだる)などが描かれていますが、これらの道具類は、今日のものとほとんど変わりません。
当時すでに、最初に酒のもととなる酒母(しゅぼ)を造ったり、もろみを三段に分けて仕込んだり、あるいは、できた酒を火入れ(加熱殺菌)して桶に密封貯蔵するという今日の酒造りの原型が確立された時代でもありました。
しかし、米の精白度はまだまだ低く、八分つき(歩留まり92%)くらいの米を使っており、水の使用量も今の0%程度で、大層濃醇な酒が造られていたようです。

<用語解説>

禁裡御所
天皇の住居。
仙洞(せんとう)
御所 退位した天皇の住居。
絵馬(えま)
祈願やお礼のため、神社、寺院に奉納する馬の絵を描いた額。のち、馬以外の絵も描かれるようになりました。
こしき
酒づくりで米を蒸すための大桶。
もろみ
酵母を大量に培養した酒母(しゅぼ)に、麹(こうじ)、水、蒸した米を仕込んだもの。発酵がおわると日本酒になる。

勘定帳▲月桂冠に現存する最古の勘定帳(1718年、享保3年)。 新酒、古酒、合酒、煮込酒、南蛮酒など、四季折々に さまざまな種類の酒を造り、商ったことがうかがえる

杜氏(とうじ)のはじまり

日本酒は、太古の昔から1年を通じ必要なたびに造られていましたが、江戸時代中頃からは冬だけ造られるように変わり、今日まで続いている杜氏制度が生まれました。豪雪地帯の農村や海の荒れる漁村の人たちは、秋の収穫や漁期を終えると郷里をたち、全国各地の蔵元に赴き、翌春まで酒蔵に住みこんで酒造りに励みます。この酒造りに携わる人々を総称して蔵人(くらびと)といい、その責任者を杜氏(「とじ」または「とうじ」)といいます。
酒造りの技術を修得し、杜氏・蔵人となって酒蔵に出かけることによって、農漁村としても貴重な金銭収入を得ることができました。
また、蔵人として村中から必要な人数を集めるのは、すべて杜氏の役目とされたため、気心の知れた信頼のおける人物が選ばれることとなり、いつの間にかその土地に根ざした酒造りの流儀が形成され「酒屋万流(さかやばんりゅう)」といわれるほど、数多くの特徴ある酒を造る技術が全国で生まれていきました。 伏見では、丹後杜氏、丹波杜氏、但馬杜氏とならんで越前杜氏が来ていましたが、その後次第に越前杜氏がふえ、伏見酒の主流となっていきました。

杜氏(とうじ)

苦難の地酒時代

笠置屋(かさぎや)は、その後、明治に至るまでの230年もの間、伏見の地酒として、営々とその経営に励んでいきました。しかし、江戸時代の伏見酒は、宿場町、港町の伏見に住む人々や旅人たちに飲まれるだけで、それ以上の発展を図ろうとすると、数々の障害が、その前に立ちはだかりました。
伏見では幕府直轄の伏見奉行を通じ、酒造に対する制限が頻繁に出されました。江戸時代は米を中心とする経済社会で、米の増産と安定供給が尊重され、そのため不作の年には米を原料とする酒造りが制限されたのです。また、近衛公の領地・伊丹(兵庫県)の酒が独占する京の町へ売りに出ることを禁ぜられたり、あるいは近江(滋賀県)の酒が伏見へ流入するなど、酒を造ったり販売したりするのにも大変苦しい時代が続きました。
万治元年(1658年)から3年にわたって、酒造りは例年の2分の1という減石令(げんこくれい)が出され、その後寛文6年(1666年)からの10年間も2分の1、4分の1、8分の1といった減石令が出されました。さらに元禄10年(1697年)から幕府は「酒運上(さけうんじょう)」を課すことをきめました。これは酒の価格に5割の運上(税金)を上のせして、それを酒造業者に納税させるという課税方法でしたが、あまりにも弊害が多いため、宝永6年(1709年)に廃止されています。
このような苛烈な政治・経済の動きの中で、83軒もあった伏見の酒造業者も、幕末には27軒にまで減ってしまうというありさまで、酒造家の浮沈とともに、「酒造株」の移転売買も頻繁に行われていました。まさに江戸時代の260年間は、伏見の酒にとっては茨の道でした。
寛政9年(1797年)の「株帳」によると、当時から明治2年(1869年)に至るまで営業を続けている酒造家は28軒中12軒、さらに正徳5年(1715年)からのものは笠置屋を含めてわずかに5軒でした。
笠置屋の初代から10代に至るまでの歴代当主は,こうしたきびしい情勢によく耐え、さらに酒造家仲間でも、年寄、年行事、惣中代など数々の役職について活躍しました。とくに、行事役についていた第4代治右衛門(1722~82)の時期には、伏見奉行・小堀政方の暴政に抵抗する伏見義民が起こったりして、その労苦の大きさが察せられます。
しかし、そうした情勢の中で、笠置屋は、酒造りへの努力を怠らず、幕末近くにその業績を伸ばしていきました。天明6年(1786年)、伏見酒造家21軒中15位という順位も、明治2年(1869年)には3位となり、1位とはその差わずか10石にせまっています。

<用語解説>

伏見奉行(ふしみぶぎょう)
京都伏見の町の民政を行う役所。江戸幕府老中(ろうじゅう)の支配下で字治川や木津川(きづがわ)の船も取り締まった。
近衛公(このえこう)
五摂家(ごせっけ。近衛、九条、二条、一条、鷹司(たかつかさ)と呼ばれた五大公卿の筆頭で、摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)に任ぜられる家柄。藤原北家(ふじわらほっけ)の嫡流(ちゃくりゅう)。
年寄(としより)
江戸時代の町政の補佐役。
年行事(年行事)
1年ごとに交代して勤める町政の当番。
惣中代(そうちゅうだい)
南北朝以来、村落共通の利益を守るため、名主(みょうしゅ、江戸時代はなぬし)層からえらばれた乙名(おとな)・年寄を中心とした自治組織。江戸期には、幕府・大名の農民統制の組織に変わりました。
年号 軒数 元株高(石) 造米高(石) 笠置屋の造米高
明暦3年(1657年) 83 15,611
正徳5年(1715年) 49 8,303
天明3年(1783年) 29 6,165 6,671 148石8斗
天明8年(1788年) 28 6,098 6,876 172石3斗
天保8年(1837年) 28 2,438
明治2年(1869年) 28 7,340 580石
<「伏見酒造組合誌」(昭和30年)より抜粋>

激動の幕末から明治初期の笠置屋

慶応4年(1868年)正月3日の夜に勃発した鳥羽伏見の戦いは、笠置屋にとっても、まさに家運を左右する大事件でした。笠置屋からほど近い伏見奉行所に陣を敷いた新撰組や会津藩(福島県)などの幕府連合軍と、御香宮(ごこうぐう)や善光寺に陣をかまえた薩長連合の官軍が砲火を交えることになりました。市街白兵戦のなか、町家の焼き払いなどにもあって大坂町から京橋、舟着場まで、そのほとんどが全焼してしまいましたが、幸いにも笠置屋は、奇跡的にその難を免れました。
類焼を免れた酒蔵兼居宅は、文政11年(1828年)、第8代治右衛門が建築したもので、伏見の町を象徴する建造物として、現在も江戸時代そのままのおもかげをどどめています。
このように創業からの約260年間は、笠置屋にとって大変苦しい時代でした。しかし代々の当主は質素倹約を旨とし、ひたすら家業に精進し、それに耐えると共に、同業仲間の人望・信頼も厚く、数々の要職をつとめ、伏見酒を守り育ててきました。

本宅と新本社

明治20年、当主となった第11代大倉恒吉(おおくら・つねきち)は積極的な経営政策をとり、初代からの伝統であった「先見性」が漸(ようや)く開花します。
業界に先駆け「大倉酒造研究所」を設立し、伝統的な酒づくりに科学技術を導入、酒質の改良を行うとともに、画期的な「防腐剤ナシびん詰酒」を発売、東京をはじめ全国への販路を開拓、それまで宿場町の地酒でしかなかった伏見の酒を、日本を代表する名酒へと育てあげていきました。
今日、「月桂冠」が創業以来360余年を数えるようになったのも、このように、常に時代の流れを敏感に読み取り、守りと攻めの経営を的確に実行してきたためといえましょう。

<用語解説>

鳥羽伏見の戦い(とばふしみのたたかい)
王政復古(おうせいふっこ)発布後、慶応4年(1864)1月、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)を擁護する幕兵が、京都南郊の鳥羽・伏見で薩摩(鹿児島)と長州(山口)連合の薩長軍と戦った。幕府軍が敗北、大阪城にいた慶喜は江戸へ軍艦で逃げ帰り、その後の戊辰(ぼしん)戦争の発端となりました。
新選組(しんせんぐみ)
幕末に幕府浪士組として結成され、のちに分裂、近藤勇(こんどういさみ)らが会津(福島)藩主、京都守護(しゅご)職・松平容保(まつだいらかたもり)の支配と庇護(ひご)のもとで再建、勤王派の志士たちと戦い、最後には、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争によって敗退する。
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