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不死身の伏見―東海道は五十七次だった―

京都・伏見を訪ねる - 酒どころ京都・伏見

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東海道五十三次の大津宿から、山科を越え五十四次目の伏見に向かう。東海道は1619年(元和5年)、伏見、淀、枚方、守口の四宿を経て大坂京橋まで延伸された。月桂冠は1637年(寛永14年)に創業。その2年前の1635年には参勤交代制が始まっており、伏見は宿場町、港町として人や物の流れがますます頻繁となっていた。水陸の交通を掌握していたことが、この地の人々の誇りとなり、「不死身」といわれる気概を生み出していった。
著者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。
出典:『洛味』584集、洛味社(2001年5月10日)より
『京街道宿場町サミット』(2001年4月7日、守口文化センター)における基調講演(真木嘉裕氏)や、パネルディスカッション(亀田訓生氏、真木嘉裕氏、岸田讓氏、中島三佳氏)での発言、配布資料からも引用・参照させていただいた。

「何を言ってるんだ。東海道は五十三次にきまってるじゃないか。五十三次目の「大津宿(しゅく)」のあとは京の三条大橋だった筈だ」との声が聞こえてきそうだ。そういえば、天保3年(1832年)の有名な安藤広重の旅の浮世絵も『東海道五十三次』という題名である。しかし、よくよく調べてみると、たしかに東海道は五十七次になっていた。
文禄3年(1594年)、天下人としての城を伏見に造営した秀吉は、延べ25万人を動員、かつてないほどの金殿玉楼の城を築くと共に、大土木工事を敢行した。まず、伏見城と大坂城とを最短距離で結ぶため、淀川左岸に「文禄堤」と称する大堤防を造ることを毛利一族に命じた。その堤上に伏見から大坂・京橋に至る「京街道」を走らせたのである。
時を同じくして、巨椋池(おぐらいけ)を縦断する堤防を築き、堤上に京と奈良を結ぶ新「大和街道」を貫通させ、さらに淀から西へ桂川を越え、大山崎を経て西宮に至る「西国街道(山崎路)」、大亀谷から東の観修寺を通る「大津街道」、藤森から京の五条に至る「伏見街道」、伏見から竹田を経て京に至る「竹田街道」、さらに南の宇治へと向う「宇治街道」など、「すべての道は伏見に通ずべし」との秀吉の壮大な構想が次々と具現されていった。
ついで伏見も大坂も徳川幕府の直轄領となった元和5年(1619年)、「京街道」の「伏見」「淀」「枚方」「守口」の4つの「宿(しゅく)」があらたに設けられた。
これ以後、東海道五十三次目の「大津宿」を出た参勤交代の大名行列は一里二町(4.2キロ)で追分(おいわけ)に至り、そこから京都への西の道をとらず南西へと向い、山科盆地を通り抜け、三里六町(12.6キロ)で五十四次目の「伏見宿」に着くという道筋となった。 これは東海道を往来する西国の諸大名が、入洛して朝廷に接触することを極端に警戒した幕府によって特別に造らせた道筋であり、「宿」であった。
元和9年(1623年)になると、伏見城が廃城となり、伏見の大名屋敷も次々と駿府や江戸に移され、多くの町人たちも京や大坂への移住を始め、さしもの伏見も一時は火の消えたような淋しさになっていった。
こうしたなかで、伏見城の外堀であった宇治川派流に架かる京橋界隈は、京・大坂を結ぶ港町としての繁栄を始めたのである。もともと伏見は大城下町であっただけに、東は「伏見街道」の京町通りから、西は高瀬川、北は墨染、南は宇治川に接し、東西1キロ、南北4.6キロというきわめて大きな「宿」へと生れかわったのである。
江戸時代、寺田屋のような船宿が建ち並ぶ船着場は、京に向う高瀬舟、大坂に向う三十石船、山城最南端の笠置へ向う淀二十石船、宇治へ行く柴船など、合せて千数百隻もの舟運の基点であった。「京橋」と「蓬莱橋」北詰を結ぶ南浜の一帯には、大名の宿泊・休憩所である本陣4、家臣用の脇本陣2をはじめ、39軒もの旅篭(はたご)が軒を連ねるという盛況であった。
さらにその東には、「問屋場(とんやば)」が設けられ、人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立て組織ができた。また一般の荷物を扱う「馬借(ばしゃく)」にも旅人や荷物が行き交い、賑わっていた。
寛永14年(1637年)、私共月桂冠の前身「笠置屋」(かさぎや)は、この馬借前において酒屋を創業したのだが、この立地が、その後の月桂冠の繁栄にもつながった。また、伏見の酒造家の多くが江戸期の不利な状況のなかその業を継続し得たのも、宿場町、湊町としての賑いによったといえよう。
「京橋」南詰めには、三十石船のように運上金によって幕府に公認された「過書船」を取締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、あるいはまた人足、駕篭、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられ、その近くには、米穀、材木、樵木(たきぎ)などを扱う問屋、あるいは回船問屋などが立ち並び活況を呈していた。
その後、徳川御三家の紀州大納言や尾張大納言、あるいは薩摩の島津侯のような大々名は、再び広大な「伏見屋敷」を構えるようになったが、明治以後、奇しくも月桂冠はこれら紀州、尾州、薩州の屋敷跡を次々と収得、酒蔵を増やしていくことになった。これも何かの因縁かもしれない。

寺田屋

「淀」「枚方」「守口」の宿(しゅく)をめぐる

「伏見宿」から一里一四町(5.4キロ)のきわめて近いところに、五十五次の「淀宿」があった。かつて秀吉が淀君のために築いた淀城は、伏見城造営の際にとりこわされ、その後、徳川幕府による伏見廃城とともに、その一部を移築し、桂、木津、宇治の三川合流の三角州の上に再び新淀城が築かれた。
「淀宿」はこの城内の三町と、淀小橋でつながった城外の三町とによって形成され、他の「宿」のような本陣や脇本陣もなく、旅篭も16軒であったが、水陸交通の要衝として「問屋場」、「伝馬所(てんましょ)」が設けられ、500隻もの淀船の母港でもあった。 「淀宿」を後に淀大橋を渡り、三里一二町(13キロ)で五十六次の「枚方宿」に着く。 「ここをどこぞと船頭衆に問えば、ここは枚方鍵屋浦、鍵屋浦には碇(いかり)はいらぬ、三味や太鼓で船停める」と船唄に歌われるほどの繁昌をみた船宿・鍵屋が今に残る。 「酒くらわんか、めしくらわんか」との悪口御免で、三十石船に寄ってゆく煮売船「くらわんか舟」もまた「枚方宿」の名物であった。 ここ枚方の「船番所」では淀川を往復するすべての船が検閲を受けた。
「枚方宿」を出て、三里(12キロ)ほど行くと、五十七次の「守口宿」に至る。 現在、京阪・守口市駅の西口を出ると、目の前に市街地より10メートルも高い「文禄堤」の一部が残っている。堤の上には昔の東海道が走っており、虫篭窓(むしこまど)や、家紋入りの「うだつ」をあげた低い家並も散見される。この「宿」のはずれから、二里(8キロ)あまりで大坂・京橋に到着、ここで「京街道」も「東海道」も終着となる。
時代が下がると共に、淀川舟運が発展、往きは陸路をとった大名行列や旅人も、帰りは伏見から大坂まで水路で下る、いわゆる片宿(かたしゅく)が多くなっていった。これによって「枚方宿」、「守口宿」は次第に「宿」の経営・維持が困難になっていったといわれる。

明治維新の逆境から立ち上がった伏見

慶応4年(1868年)1月3日に起った鳥羽伏見の戦いで、伏見の街は大半を焼失、さらに明治に入ると東京遷都という激変に襲われた。京都の人口が35万から25万へと減じ、伏見もまた文明開化という大波に洗われることになった。
明治10年(1889年)、京都~大阪間に鉄道が開通、同13年(1892年)、鉄道は稲荷、山科を経て大津に至り、同22年(1901年)には、東海道線が完成した。しかし残念なことに、伏見はこの大動脈からはずれてしまった。 明治28年(1895年)、町民たちの強い要望に応え、京都~奈良間の鉄道が伏見を通る形で実現した。これで念願だった東海道線とも間接的につながることになり「伏見の酒」もこれ以後、東京をはじめ各地へ鉄道によって出荷され、その名声は次第に全国へと広まっていった。
この年はまた、京都・岡崎で開かれた「内国勧業博覧会」に大勢の観光客が集ったが、それを外輪式蒸気船によって大阪から迎え、伏見・油掛から日本最初のチンチン電車(当時は京都電気鉄道、のちに市電)に乗せ、京都・七条まで運んだ。さらに、明治43年(1910年)、京都・五条から大阪・天満まで「伏見」「淀」「枚方」「守口」の四宿の町を縫うような形で京阪電鉄が開通した。
その後、荷物の方は汽車輸送と競合しながらも、淀川舟運がなおさかんに利用され、昭和4年(1929年)には伏見・三栖に閘門が築かれ、それまでの伏見港も再整備されていった。しかし、こうした舟運も戦後急速に発展した自動車輸送に次第にとって代わられ、昭和30年代後半、ついにその姿を消した。
伏見は昔から水陸の交通を掌握する位置にあった。それがいつしか伏見の人々の誇りとなり、「不死身」といわれる気概を生み出していった。いまや時代が大きく移り変るなか、この気概こそが歴史の街・伏見の再生に大きく活かされてゆくことだろう。

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