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十石舟

伏見の三栖閘門
港町伏見、水辺の魅力を感じる十石舟の旅路

京都・伏見を訪ねる - 酒どころ京都・伏見

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十石舟柳の若芽が酒蔵の白壁に映える五月晴の午後、伏見城の外堀だった濠川(ほりかわ)に浮かぶ「十石舟」に乗り込む。舟が月桂冠大倉記念館の乗舟場を離れるや、滑るように川面を進んでゆく。薫風が頬をなで誠に快適。乗客は10人ほど。30分ほどの短い船旅だが、日頃見馴れている川沿いに連なる酒蔵や古い町並みも、こうして見上げると、また違った風情がある。
著者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。
出典:『洛味』573集、洛味社(2000年6月10日)をもとに執筆

舟旅の風情感じる十石舟

昔、三十石船の発着場だった蓬莱橋、京橋界わいを過ぎ、であい橋に建つ角倉了以顕彰碑の傍まできたところで、舟は大きく左へ曲がり、みなと広場へと向う。肥後橋にさしかかるあたりから、京阪電車と外環状線の高架越しに、昭和4年(1929年)構築という威風堂々たる三栖閘門(みすこうもん)の塔とゲートが見えてくる。

三栖閘門(みすこうもん)

この風景を目に、50年前のことをふと思い出した。当時の私は、千変万化する酒造りと微生物の面白さに夢中だった。そんな私を見かねたのか、ある日、営業部長だった山本玉城さんがわざわざ声をかけに酒蔵に来られた。「栗山はん、そう毎日毎日顕微鏡ばっかり覗いていなさんな。たまには空も見てみなはれ。いろんな花も咲いてることやし・・・」とかなんとか言いながら、その夜の俳句会へ少々強引に誘われた。その初めての句会の雰囲気に、私はすっかり魅せられてしまった。その後、吟行も自らが企画するようになっていった。夏は長谷寺の牡丹、冬は時雨の寂光院などと回を重ねるうち、秋はお公家さんたちや太閤さんなどが楽しんだであろう風流にならって、宇治川に船を浮かべ名月を詠もうじゃないかということになった。

運河を通過、宇治川へ漕ぎ出す

当時、伏見港は京阪中書島駅から西へ20メートルほどいったところまで入りこんでいて、その水辺の料理旅館数軒が網船宿となっていた。その中の一軒の座敷縁から船に乗り込む。
いまは伏見港公園となって様変りしているが、府の体育館のあたりが船だまりだった。夕暮れの淡い光が水面に漂う中を私たちの船はゆっくりと閘門の方へ進んでゆく。
閘門の赤いゲートが間近になると、船頭が大声で呼びかける。やがてガラガラという音と共に、鉄扉が昇り始め、船首の方向に、満々と水をたたえた細長い閘室が見えてきた。船が中ほどへ進むと再び大きな音がして、いま下を通ったばかりの鉄扉が降りてきた。左右に鉄矢板の壁、前後を鉄扉に囲まれ、私たちの舟だけがポツンと浮かんでいる。妙に静かで、異様な感じさえした。
しばらくすると、ゴボゴボゴボという音と共に、閘室の水面がじわじわと上ってきた。水面を宇治川と同じ高さにするため、ポンプで水を閘室に注入しているらしい。ゆらゆら揺れながら船が押し上げられてゆく。しばらくして左右の鉄矢板がかなり低くなったように見えたとき、ポンプの音が止んだ。
こんどは舟首の方のゲートが巻き上げられてゆく。途端に広々とした宇治川の景が目にとび込んできた。思わず「おー」という歓声が句友たちからもれる。
「そいじゃ、いきまっせ」。船頭さんの掛声で、船はするすると宇治の本流へ漕ぎ出してゆく。対岸の堤防がいやに遠くに見え、その茫漠たる眺めはいささか感動的でさえあった。
やがて船が宇治の方へと向かう頃、雲の中から待望の十五夜の月が顔をのぞかせてくれた。「なんと、これはいい。これなら太閤さんもお喜びだろうよ」などと、ようやく句会気分になっていった。
この夜の月見句会でどんな名句が生れたか、さっぱり記憶にない。多分、閘門通過の感動の方が強烈で、句友たちも、印象に残るような月の句はできなかったのだろう。
それはさておき、このときの体験は、今となっては貴重なもの。というのは、その後数年たって、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成、これによって宇治川が増水するたびに起こっていた伏見の洪水被害がなくなり、伏見の街の人達は大いに喜んだのだが、そのかわり宇治川の水位は大幅に低下、閘門はその機能を全くなくしてしまったのである。

濠川からの月桂冠酒蔵

港町伏見・舟運の歴史

江戸時代、伏見に集まる船は、有名な三十石舟(過書座船)が740隻、十五石舟(奉行支配船)が200隻、淀二十石舟(運上免除船)が500隻、さらに高瀬舟が200隻と驚くほどの多さであった。 それが明治2年(1869年)、淀川にも蒸気船(外輪船)が就航するようになると、あれほど繁盛した三十石船も次第に少なくなり、明治10年以後、京都~大阪間を鉄道が走り、明治43年(1910年)には京阪電車が五条~天満橋間に開通するに至って、ついに三十石舟は休舟、大正9年(1920年)、高瀬舟も廃止されてしまった。
しかし、鉄道貨物の利用が急増して混雑するようになったため、再び船運が活況を呈するようになった。とくに昭和4年(1929年)、三栖閘門の創設によって、年間2万隻以上もの船が通航していたといわれているが、その後淀川の船は次第にその数を減じ、昭和37年(1962年)、貨物船の運行が終焉、同43年(1968年)には伏見港も埋め立てられ、ここに伝統ある伏見の舟運はその幕を閉じた。

伏見の水辺再生

最近、こうした歴史をもつ三栖閘門と、それを取り巻く地域の歴史や文化を再評価しようとの動きが起こり、平成13年(2001年)より、有職者、地域の人たちなどによる懇談会が催され、私もその一員に加わってきた。幅広い視点から地域の歴史、文化の保存と水の持つ多彩な機能や現在のニーズを配慮しながら、土木史上価値が高いといわれる閘門施設とその周辺の活用法などを真剣に検討してきた。
その結果、「三栖閘門と伏見みなと広場」として、周辺の整備、資料館の創設を行うと共に、閘室に再び水を引き入れ「十石舟」の乗船場とするなどの案が、第3回世界水フォーラムの一環として平成15年(2003年)に実現するに至った。
こうした「三栖閘門賑わい創出事業」は、伏見にまた一つ大きな魅力を生み出し、21世紀の京都再生にも役立つこととなろう。

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