月桂冠トップ > 知る・学ぶ > 京都・伏見を訪ねる-酒どころ京都・伏見 > 京・伏見で、明治からの日本を決した戦闘 鳥羽伏見の戦い(1868年)
「明治維新 伏見の戦跡」石碑 ▲御香宮神社境内の「明治維新 伏見の戦跡」石碑。鳥羽伏見の戦いを銘記するため、1968(昭和43)年、「明治百年記念」に際して、御神祭壱千七百年祭奉賛会により奉納された。当時の内閣総理大臣・佐藤栄作氏が揮毫

京・伏見で、明治からの日本を決した戦闘
鳥羽伏見の戦い(1868年)

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明治へと時代が変わる直前、京の伏見で勃発した戦闘が、その後の日本の未来を決した。それが鳥羽伏見の戦いである。戦から150年。激動を越えて難を逃れた「大倉家本宅」(京都市伏見区本材木町)、火の手を食い止めたであろう消火ポンプの応龍水など、月桂冠にまつわる逸話も語り継がれている。伏見での戦況を振り返る。

日本の権力争いの転換点となった大事件

1867(慶応3)年10月14日、江戸幕府第15代征夷大将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返上し、幕府による支配体制が終わった。同年12月9日には、王政復古の大号令が発せられ武家政治が廃止となる。最後の将軍となった徳川慶喜は京都から大坂へと退き、一方で幕府の軍勢は大坂から京へと進軍した。京の伏見では、幕府軍と新政府軍の勢力が拮抗し、一触即発の緊張が高まっていた。

明けて1868(慶応4)年1月3日、伏見上鳥羽の小枝橋で戦端が開かれた。新政府軍の5,000人に対して、幕府軍は15,000人と圧倒的に優勢だった。現在の城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の西方、鴨川にかかる小枝橋のたもとで両軍がにらみ合い、新政府軍の砲声を契機として、一気に伏見の街を巻き込む戦闘となったのである。

大手通り(大手筋)を挟んで市街戦

伏見の街中では、伏見奉行所の会津藩兵や新選組を含む幕府軍、その150メートル北側に位置する御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ、京都市伏見区御香宮門前町)で陣取った薩摩・長州を中心とする新政府軍との間で、激しい市街戦が繰り広げられた。街中を東西に貫く大手通り(現在の大手筋)を挟んで両軍が攻防、新政府軍が幕府軍の北進を防ぐべく布陣を固め、御香宮神社や東側の桃山方面(龍雲寺の砲台)から敵陣に大砲を打ち込んだ。幕府軍も砲弾や銃で応戦、新選組は御香宮神社に向けて突撃した。しかし、薩摩軍の砲弾により、幕府軍が駐留していた伏見奉行所は焼け落ちた。

伏見鑑▲江戸時代の伏見の名所を紹介した『伏見鑑』(ふしみかがみ、月桂冠史料室・蔵)に、幕府軍が陣取った伏見奉行所の門構えが描かれている。安永年間(1772~1780年)発行。奉行所は、現在の桃陵団地、伏見公園、桃陵中学校のあたりに所在していた。奉行前町、西奉行町、東奉行町(いずれも京都市伏見区)などの地名を現在に伝えている

幕末維新の激動を越えた笠置屋の酒

市街戦により、現在の月桂冠本社前(京都市伏見区南浜町)の街道筋(立石通りから南浜通り)をへだててすぐ北側の建物、その並びに連なる船宿や町家などの多くが焼失した。特に南浜町、車町、油掛町、京橋町などは被害が激しかったという。

大倉家本宅▲伏見奉行所跡から西へ400メートルほど来たあたり、月桂冠本社の西側で居様を見せる大倉家本宅。築190年、幕末維新の激動を越えて、伏見に残る江戸期の酒蔵建築として唯一のものである

屋号を笠置屋として酒屋を営んでいた大倉家の本宅(1828年=文政11年築の酒蔵兼居宅)にも、道を挟んで目の前まで戦火が迫り、存亡の危機にあったのである。しかし、街道筋に面して道幅が比較的広かったことも幸いし、さらに店員たちが力を合わせて消火活動に励んだのであろう、戦火の中で延焼を食い止め奇跡的に難を逃れた。そのことが現在、月桂冠としての継続につながっているのである。

応龍水▲手動式の消火ポンプ「応龍水」(おうりゅうすい)。「笠置屋」のマークが本体の中央に彫り込まれ、黒漆が塗られている。横面には鳥羽伏見の戦いの2年前、1866年を示す慶応2年の銘が刻まれている。この応龍水を使って、戦火による延焼を寸前で防いだのでは、との想像も(月桂冠大倉記念館・蔵)

伏見奉行所跡からは、2008年、「鳥羽伏見の戦い」に関係する遺物が発掘されている。その中から、「かさぎや」の銘入りの徳利が見出された。戦火により表面が焼けただれ、白色の釉薬は剥がれて削り取ったような文字跡が見られる。量り売りされた酒は長期間保存するものではないことから、奉行所に逗留していた会津藩兵や新選組の隊士たちが、戦を前にして笠置屋の酒を飲み、気勢を上げていたのではないかとの想像もふくらむ。

通い徳利▲伏見奉行所跡から酒の量り売りに使われた「通い徳利」(右側)が発掘された。高さ34センチメートル、胴部分の最大径(直径)12.4センチメートル、容量は約1.4リットルと大型。戦闘で幕府軍並びに薩摩軍が使った砲弾や銃弾なども見出されている(月桂冠大倉記念館・蔵)

会津藩白井隊、納屋町・風呂屋町・毛利橋を進軍

大手通りでの攻防が続いていた中、伏見で新政府軍の敷いた前線を突破したのが、会津藩・白井五郎太夫の隊である。現在の月桂冠本社から竹中町通りを200メートルほど北へ進んだ突き当たり、会津藩駐屯地の伏見御坊(東本願寺別院)から出発し、納屋町、風呂屋町の各通りを北上、毛利橋通りを西へ進み、現在の月桂冠昭和蔵の北側あたりから竹田街道を北進した。その先の土橋で土佐藩の守備兵と遭遇したため、もと来た道を引き返しつつ、西側から回り込んで薩摩藩伏見屋敷(京都市伏見区東堺町、現在、関連会社の松山酒造が操業)に到達、屋敷を焼き討ちにした。

白井隊は伏見の前線を破って、さらに京の中心部に向けて進軍していったが、幕府軍全体としての連携が不十分だったことから、再び伏見へ引き返すうちに新政府軍の襲撃に遭い、隊は壊滅した。会津藩白井隊に呼応して、幕府軍の各隊が進撃していれば、形成が逆転し、もしや権力の行方は異なっていたかもしれない。

伏見での戦闘の終焉

1月4日、幕府軍の戦線は、伏見桃山からは南西側の淀(京都市伏見区淀)まで後退した。当初は優勢だった幕府軍は劣勢に傾いていった。1月5日には、そもそも幕府軍本営のあった淀城からして、藩主が不在の上、留守役の家臣たちは幕府軍に付くか、新政府軍に付くか、日和見の状態に陥っていた。そんな中で1月6日、新政府軍側から皇軍であることを示す「錦の御旗」がひるがえった。そのことにより、日和見だった各藩は雪崩を打つように新政府軍側に恭順したのである。「錦の御旗」により、情勢がまさに旗幟鮮明となって幕府軍は敗走、徳川慶喜は大阪湾に控えていた幕府の戦艦・開陽丸に強引に乗船し、江戸へ逃れた。

京都・伏見の町

今では平穏な京都・伏見の町で、ほんの150年前に繰り広げられた「鳥羽伏見の戦い」は、その後の新たな時代を方向付けた、日本史上でも重要な決戦となったのである。

(参考文献等)
  • 野口武彦『鳥羽伏見の戦いー幕府の命運を決した四日間』中公新書(2010年)
  • 西近畿文化財調査研究所『伏見城跡・桃陵遺跡 発掘調査報告書』(2010年3月20日)
  • 「明治維新150年スペシャル 決戦!鳥羽伏見の戦い 日本の未来を決めた7日間」 NHK/BSプレミアム (2017年12月30日放送)
  • 伏見酒造組合『伏見酒造組合一二五年史』(2001年)
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