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展示場・展示品

エントランス

伏見の酒どころとしての発展は、およそ400年前からで、伏見城の築城とともに整備された伏見港開港の頃にさかのぼります。京と大坂、大和を結ぶ交通の要として人々が行き交うこの町の一角で、月桂冠は1637年(寛永14年)に創業しました。京都府南部の笠置(かさぎ)から出てきて創業したことにちなみ屋号を「笠置屋」とし、酒銘は「玉の泉」と称していました。江戸時代は、地元を中心に商う小さな造り酒屋でした。当館エントランスには、往時の意匠を配しており、昔ながらの伏見の酒屋の様子を偲ぶことができます。

昔の帳場

玄関の格子戸をぬけると、すぐ左側の部屋に、酒屋の帳場を復元しています。座敷の中央に帳簿机を配しています。記帳の内容が客人から見えないようにするため、机の三方を格子状の結界(けっかい)で取り巻いています。

昔の帳場

両替天秤

酒屋のかたわら両替商を営んでいたことから、帳場には両替天秤が見られます。両側にある上皿のバランスをとる中央の支点の部分を「針口」と称するところから、「針口天秤」とも呼ばれます。鳥居型の枠組みで天秤を支えています。

両替天秤

笠置屋マーク入りの提灯箱

普段使いの提灯を折りたたんで収納し、鴨居の上に置いていました。木箱に和紙が巻かれ、正面には当社の前身「笠置屋」のマークが入っています。マークの丸は円満や平和を、斜め上へ伸びる線は進取の志を表しています。このマークは現在、月桂冠の社章として用いています。

笠置屋マーク入りの提灯箱

共電式卓上電話機

京都・伏見では1908年(明治41年)に電話が開通しました。その当時の電話機と同型のものです。受話器には「大正十二年八月、川北電気製伯所」の銘が入っており、月桂冠本店で大正末頃から昭和初期にかけ使われていました。以前の磁石式電話機は、各加入者宅の電話機に送話用の電池と信号用発電機を備えることが必要でした。一方、この共同電池式電話機は、交換局の電池を加入者が共同使用する方式で、日本には明治36年(1903年)5月に導入されました。

共電式卓上電話機

柱傷

当館はもともと酒蔵で、1909年(明治42年)に建造されました。びん詰や、樽に菰(こも)を巻く作業も、ここで行っていました。菰縄を切るための鎌は床に置いたままでは危ないので、使わない時は柱に打ち付けていました。その傷跡が柱傷として残っています。

柱傷

小屋組み天井の梁

入口から広がる土間は、以前は三和土(たたき)でしたが、記念館の公開にあたり、酒蔵の米洗い場にあった板石を社内から集めて敷き詰めました。吹き抜けの天井は、縦横に木材を配して屋根を支える小屋組みの梁(はり)が、よく見えるようにしています。

小屋組み天井の梁

伏見城下町図

豊臣秀吉が伏見に築城した当時の城下町を表した絵図。内濠に囲まれた赤色の部分は伏見城の本丸などを含む要塞、茶色の部分は武家屋敷、白色の部分は町家となっています。東西4キロ、南北6キロの伏見城下町には、武士や商人、職人が住まい、人口は数万とも言われるほどに膨れ上がり、江戸、大坂、堺に次ぐ大都市になりました。江戸期の1601年(慶長6年)に、徳川家康が銀貨の鋳造所を設けた「銀座」の地名も町の中央に見られます。ここは日本の銀座の発祥地です。
現在の武家屋敷跡には、「羽柴長吉」「井伊掃部」「毛利長門」「筒井伊賀」などの武将の名が地名として残り、縦横の町割りにも城下町時代の面影を偲ぶことができます。

伏見城下町図

笠置屋の瓦

月桂冠本社の西隣に現存する大倉家本宅の大屋根に上げていた鬼瓦。瓦の正面中央には、当社の前身「笠置屋」のマークが入っています。丸は円満や平和を、右上がりの斜め線は進取の志を表したものです。別の紋入りの瓦には、「文政十一年 子六月吉日」の銘が入っており、大倉家本宅の建造年は文政11年(1828年)であることがわかりました。
1868年(慶応4年)新春に勃発した鳥羽伏見の戦いで、伏見の町は戦火に見舞われ、船宿、町家などの多くは焼失しました。大倉家本宅へは、通りをへだてた北側まで戦火が迫っていましたが、羅災をまぬがれ、江戸期の伏見の酒屋の趣を現在に残しています。

笠置屋の瓦
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