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展示場・展示品

屋号「笠置屋」・酒銘「玉の泉」

月桂冠の前身である「笠置屋」(かさぎや)は、京の伏見の地で1637年(寛永14年)、酒屋を創業しました。屋号の「笠置屋」は、初代の大倉治右衛門が、京都南部の笠置から出てきたことにちなむものです。治右衛門の父にあたる笠置の大倉家第41代善右衛門尉行隆が、農業や商工業を幅広く行う中で、酒造業も営んでいたことが、伏見での酒屋創業につながっていきます。江戸期の笠置屋は地元を中心に商う小さな造り酒屋でした。
1600年に関が原の戦い、1603年には江戸幕府が開かれ三十数年、当社が創業した1637年は三代将軍・家光の時代にあたります。城下町、港町、宿場町として発展してきた伏見は、交通の要衝としてにぎわいを見せるようになっていました。
江戸期には、幕府の減醸令による酒造制限や、京の市中への他所酒の移入禁止、鳥羽伏見の戦で伏見の街が戦火に遭うなど、伏見酒に苦難が続きました。

印菰原図 (玉の泉)

樽の正面を飾る酒銘入りのデザインのひな形(1884年=明治17年)。1637年(寛永14年)創業当時からの酒銘「玉泉」と共に、水流に浮かぶ桃が描かれ、「愛児得萬寶」の文字が脇に付記されており、桃太郎伝説にちなんだデザインのようです。
酒を詰めた木樽は、稲わらで編んだ菰(こも)で包まれます。菰はもともと、酒樽を保護するためのクッション材として巻かれていました。商標や図柄を刷り込み、次第に装飾性を帯びたものになりました。商標を刷り込んだ菰は、印菰(しるしごも)と呼ばれます。

印菰原図 (玉の泉)

商標簿とひな型

明治・大正期の清酒の販売容器は樽詰めが全盛でした。稲わらで編み樽に巻いた菰(こも)の正面には、商標と図柄が描かれ、装飾性を帯びたものになっていました。当社に残る商標簿には、ひげ文字で書かれた商標と共に、鮮やかな色彩を用いたおめでたい意匠が描かれたひな形が見られます。
各地の酒問屋さん専用、または共用の商標・図柄の描かれた酒樽は、明治中頃以降、地元の京都・伏見はもとより、遠くは北海道に至るまで広く流通してたことが記録に残っています。

商標簿とひな型

応龍水 (おうりゅうすい)

手動式の消防ポンプで、応龍水または龍吐水とも呼ばれます。本体の中央に彫り込まれた笠置屋のマークに黒漆が塗られています。横面には慶応2年(1866年)を示す銘が記されています。
2年後の慶応4年(1868年)新春に勃発した鳥羽伏見の戦で、伏見の街は戦火に包まれ、近隣の船宿や町屋のほとんどが焼失しました。月桂冠本社(伏見区南浜町)の西隣に現存する大倉家本宅(文政11年、1828年築)は、道を挟んですぐ北側まで火の手が迫っていたようですが、被災を免れました。この応龍水を使って延焼を防いだのかもしれません。

応龍水 (おうりゅうすい)

笠置屋徳利

丹波立杭焼の鉄釉の化粧地に、「ふしみ」[写真左]、「かさぎや」[写真右]と書かれた陶製の徳利。かさぎや(笠置屋)は、1637年(寛永14年)創業当時の屋号です。竹筒に釉薬を流し込んで書く、筒書きによるもので、文字は盛り上がっています。
地名や酒屋の銘入り徳利は、「通い徳利」「貸し徳利」などと呼ばれ、量り売り(はかりうり)や酒質見本の運搬などに使われていました。徳利の大きさは、四合(720ミリリットル)前後から一升(1800ミリリットル)以上入るものまでさまざまです。江戸時代後期になると、徳利は次第に小型化し、飲用に二合半(450ミリリットル)の徳利が多く用いられるようになりました。
2008年11月、伏見奉行所跡の発掘現場から、同型の笠置屋徳利が見つかりました。徳利の表面は焼けただれており、発掘関係者によると、鳥羽伏見の戦(1868年、慶応4年)での被災によるものとされています。奉行所には幕府軍が陣取っていたことから、出陣を前にして新撰組の土方歳三らが酒を酌み交わしていたのではないか、との説も聞かれます。

笠置屋徳利

笠置屋の印章

「笠置屋治右衛門」の文字が見られる木製の印章です。「笠置屋」は、京都府南部の笠置の地から伏見に出て、1637年(寛永14年)に創業したことにちなむ屋号で、「治右衛門」の名は、伏見大倉家で第10代まで襲名してきました。明治期の11代目は幼名の恒吉を名乗りました。現当主は第14代目にあたります。

笠置屋の印章

金枡 (かねます)

長方形の一分銀、一朱銀など小型の貨幣を数えるのに用いられました(縦31センチメートル、横11.6センチメートル)。江戸期には金枡(かねます)、明治期以降は硬貨枡と呼ばれていました。
枡の裏側に「天保六年乙末六月」、左下には「笠次」と書かれています。「笠次」は笠置屋治右衛門の略で、天保6年(1835年)に当主だった8代目治右衛門(1769年-1856年)の持ち物と思われます。8代目治右衛門は、年寄役や惣中代などの地元の役職にも就いていました。当館の近隣に現存する、江戸期(文政11年、1828年)の大倉家本宅を建てたのも天保6年当時、一朱銀3枚で、酒の場合は十升(18リットル)、米の場合は15升3合(23キログラム)程度が購入できました。
室町期から酒屋は土倉(質屋)を兼ね、土倉が酒屋に乗り出すなど、「土倉酒屋」として兼業される例が多かったようです。同様に笠置屋は、両替商を営んでいました。

【当館エントランスに再現した江戸期の酒屋の帳場には、貨幣を計った両替天秤を置いています】

金枡 (かねます)

大倉家家紋入り陣笠

陣笠は、武士が兜(かぶと)の代用としてかぶった防具で、薄い鉄や革などでつくられ、正面に家紋を入れています。この陣笠は江戸時代のもので、浅く平らに作られた「一文字笠」と呼ばれる漆の塗笠です。
伏見は多くの大名屋敷が設けられ、参勤交代の通り道でした。笠置屋の歴代当主は、地元や酒造仲間のさまざまな役職に就いており、特に8代目大倉治右衛門は最高責任者である年寄役をつとめていました。この陣笠は、大倉家の定紋「丸に剣かたばみ」を入れ、あらたまった場の正装のひとつとして用いられてたものと思われます。笠は直径42センチメートル、家紋は直径7センチメートル

大倉家家紋入り陣笠

売附仕切帳

明治期(明治33年=1990年頃)の経理と販売の記録を兼ねた帳簿。長半紙を張り合わせた巻物に、筆書きされています。
酒の銘柄を示す「正宗」や「平安」などの印章が押され、販売日を示す「明治三十三年九月十一日入」の日付や、数量を示す「酒弐捨九駄 片馬」(2丁の樽を馬の背に振り分け、これを一駄としていた、片馬は樽1丁)、販売代金を示す「代金六百参拾三円七拾五銭」、運搬に使われた船を表す「朝日丸」「河波丸」「小倉丸」「本山丸」や、「汽車」などの表記で、取引きごとに記録されています。照合したことを示す「合」の印章や、手書きの「○」印も見られます。

売附仕切帳

印半纏 (しるしばんてん)

印半纏は、厚地の木綿でできた丈夫なもので、仕事着として酒屋以外にもさまざまな職種で使われていました。体を保護する役目も果たしていたと思われます。
多くの半纏には、襟や背中の部分に屋号や店印が記されています。この半纏では全面に篆書でデザインした「月」「桂」「冠」の抜き文字が配され、前面左右の襟に「月桂冠發賣元」「大倉京都支店」とあります。背面の襟には笠置屋のマーク、背中には円形の中に月桂冠をあしらい、腰周りには月桂樹の葉がデザインされています。古い写真には、半纏に鳥打帽、前掛けに角帯姿で写っている従業員が見られます。

印半纏 (しるしばんてん)
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