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展示場・展示品

酒の器

酒器には、銚子や燗徳利・盃など酒をおいしくいただくための器があります。一方、酒を運び貯蔵するために酒樽や酒桶・大徳利などが用いられます。その名称や形状、意匠は、工芸や技術の発展、時代時代の酒の飲まれ方により変化してきました。その移り変わりを当館の展示品を通じて追うことができます。

銚子と提子

「お銚子1本!」という言葉をよく聞きますが、銚子(ちょうし)はもともと、あらたまった酒宴や三三九度などの儀式に用いる、長い柄(え)のついた金属や木製の器を指しました。宮廷の祝宴で使われた銚子は一箇所に注ぎ口のある片口でした。大勢で酒盛りをする時など略式では両口のものを用い、左右の口から盃に注ぎます。
樽から酒を取り出し、上部に取っ手のついた「提子」(ひさげ)に移し、「銚子」の酒が足りなくなると酒を加えて補充していました。そのため「提子」は「くわえ」とも呼ばれ、銚子の補助的な容器でした。
鶴と亀の模様が刻まれた両口の銚子(手前の「金銅鶴亀文長柄銚子」、長さ48cm、高さ12.5cm、幅27.5cm)と、提子(後方の「金銅鶴亀文提子」、長さ22.2cm、高さ20.8cm、幅15.5cm)。いずれも金銅製。

(参考文献)
・鈴木規夫「酒器の起源と移り変わり」『徳利と盃』別冊太陽・骨董を楽しむ1、平凡社(1994)
・森太郎「日本の酒器」『世界の酒の履歴書』シリーズ◆酒の文化第2巻、社団法人アルコール健康医学協会編(1997)

銚子と提子

注酒器としての提子

桃山時代(16世紀末)には、蓋(ふた)付きの提子(ひさげ)があらわれました。提子は湯や汁用などにも使われましたが、特に酒用の提子を江戸時代前期から「銚子」と呼び、直接、盃に注ぐようになりました。「銚子」は、鉄や錫・木製に加え、天保年間(1830~1844年頃)には、陶製のものが使われはじめました。同じ頃、磁器の使用が広まると、カラフルな色絵や染付けを施した磁製の銚子もよく使われるようになりました。写真左は、磁器製の瓢型銚子。
写真右は、江戸時代後期の蒔絵銚子で、雌雄の鳳凰(手前が雄、向かい合うように雌)が金銀の蒔絵で黒漆地に描かれています。その周囲には吉祥花と唐草文が配され、内面は梨子地(梨の皮を思わせる細かな凹凸のデザイン)で仕上げられています。直径18cm、注ぎ口含む横幅26cm、持ち手を含む高さ20cm。

(参考文献)
・鈴木規夫「酒器の起源と移り変わり」『徳利と盃』別冊太陽・骨董を楽しむ1、平凡社(1994)
・森太郎「日本の酒器」『世界の酒の履歴書』シリーズ◆酒の文化第2巻、社団法人アルコール健康医学協会編(1997)

注酒器としての提子

瓶子と徳利

左から、瓶子(へいし)、大徳利、燗徳利。
「徳利」は、酒を神棚に供えるための「瓶子」(へいし)が変化したもの。室町時代にはすでに「とくり」という呼び名があったようです。
「大徳利」は「通い徳利」「貸し徳利」などと呼ばれ、量り売り(はかりうり)や酒質見本の運搬などに使われ、地名や酒屋の銘が書かれています。大きさは、四合(720ミリリットル)前後から一升(1800ミリリットル)以上、二升、三升もの大容量までさまざまです。酒だけでなく醤油や酢など液体や穀物の運搬、貯蔵にも用いられていました。
江戸時代後期には、一合から二合程度の小さな徳利が普及し、盃に直接注ぐようになりました。
小型の「燗徳利」は、銚子と同じく酒を盃に注ぐ用途があることから、明治時代頃からは「銚子」とも呼ばれるようになりました。右写真は月桂樹の葉をあしらった彩色銚子で、背面には「月桂冠」をデザインした文字、底面には「大倉本家醸」と記されています。底部の直径は5cm、高さ14cm、容量は1.5合。

(参考文献)
・鈴木規夫「酒器の起源と移り変わり」『徳利と盃』別冊太陽・骨董を楽しむ1、平凡社(1994)
・森太郎「日本の酒器」『世界の酒の履歴書』シリーズ◆酒の文化第2巻、社団法人アルコール健康医学協会編(1997)

瓶子と徳利

神酒口

神酒口(みきぐち)は、お神酒徳利の口に挿す装飾。地方により、素材は竹、ひのき、紙と異なり、さまざまな意匠があります。その由来は定かではありませんが、御幣(ごへい、神前に供える白い紙の装飾)の変形したもの、神様を迎え入れるアンテナのようなものとも考えられています。
左写真の神酒口は竹製で、万年青(おもと)をデザインしたもの。万年青は赤い実をつける観葉植物。新しい葉が内側で成長するにつれて外側の古い葉が枯れ落ちることから、新旧の交代が永続するめでたいものとして、正月や婚礼の祝い花にも用いられます。神酒口 の高さ17cm、お神酒徳利(伊万里焼)の高さ14.5cm。
右写真の神酒口は杉で造られ、九谷焼のお神酒徳利におさめられています。

(参考・引用文献)
・月桂冠社内誌『さかみづ』137号(1991年2月)

神酒口

カワラケ

古代の酒盃は素焼きのカワラケ(土器)で、室町期頃まではおもに土器で酒が飲まれていました。現在も神饌具として使われる盃は、古式にならって土器が用いられることがあります。

(参考文献)
・鈴木規夫「酒器の起源と移り変わり」『徳利と盃』別冊太陽・骨董を楽しむ1、平凡社(1994年)
・森太郎「日本の酒器」『世界の酒の履歴書』シリーズ◆酒の文化第2巻、社団法人アルコール健康医学協会編(1997年)

カワラケ

屠蘇用酒器

新年の屠蘇、婚礼の三三九度の儀式には、吉祥文様を蒔絵で施した朱漆塗りの三つ重ね盃を用います。神饌具として使われるカワラケにならい、盃は朱塗りにされ、薄くて平らな形状です。漆塗りの酒盃が用いられるようになったのは15世紀頃からで、武家社会では酒盃のやりとりを文化として洗練させていきました。

(参考文献)
・鈴木規夫「酒器の起源と移り変わり」『徳利と盃』別冊太陽・骨董を楽しむ1、平凡社(1994年)
・森太郎「日本の酒器」『世界の酒の履歴書』シリーズ◆酒の文化第2巻、社団法人アルコール健康医学協会編(1997年)

屠蘇用酒器

磁盃

磁器の盃で飲むようになったのは江戸時代中期(寛政期=18世紀末)頃から。猪口は会席料理の一品や酒肴を盛り付ける向付(むこうづけ)の器を、酒盃として転用されたもので、明治時代にかけて次第に盃は小さくなっていきました。アルコール度の高い芳醇な酒が造られるようになったこと、酒宴で大盃を廻し飲みする機会が減少したこと、居酒屋の流行や晩酌の定着などが、盃の小型化の要因とされています。

(参考文献)
・鈴木規夫「酒器の起源と移り変わり」『徳利と盃』別冊太陽・骨董を楽しむ1、平凡社(1994年)
・森太郎「日本の酒器」『世界の酒の履歴書』シリーズ◆酒の文化第2巻、社団法人アルコール健康医学協会編(1997年)

磁盃

盃洗

酒席で盃(さかずき)を洗うための水を入れる器を盃洗(はいせん)といいます。日本では、一つの盃で酒を酌み交わすことによって心を通わすとの考えから、「献盃」(けんぱい)とか「お流れ頂戴」(ちょうだい)と称し、盃がやりとりされてきました。盃洗はその際に用いられ、料亭などで使われるものには高尚な絵付けがされていました。もともとは大きな鉢や丼を盃洗代わりに使っていました。酒席でも映えるよう、次第に磁器製や漆器製の器に変わっていきました。
写真右は、直径13.5cm、高さ9cm。写真左、「月桂冠」の商標が入った盃洗は錫製。上部の一辺10cm、高さ10cm。

盃洗

瓢箪

瓢箪(ひょうたん)は、水筒として、また半分に割って食器として用いられています。もちろん酒の容器としても利用され、野外に持ち出すのに重宝されていました。花見などに持っていく酒を「一瓢」ともいいました。
瓢箪は使い込まないと苦りや独特の香りがとれず、酒の味にも影響が出ることに注意。「酒を飲ませる」と称して、表皮を酒で磨くほど赤味がかったいい色になります。この瓢箪は江戸時代のものと伝えられています。高さ40cm、胴の直径約20cm。
瓢箪の連想から、胴体がすぼんだ形で磁器製の「瓢型徳利」もよく見られます。

瓢箪

野立弁当

江戸期の野立弁当で、「野弁当」「花見弁当」とも呼ばれる手提げの重箱。徳利2本と酒盃、枝垂れ桜を描いた重箱などをセットしています。花見など野遊びの際に携帯するもので、四季折々の旬の料理と一献の酒を組み合わせる仕組みになっています。もとは貴族の間で用いられていましたが、江戸期には町衆へと次第に広まっていきました。縦12cm、横21cm、高さ21.5cm。

(参考・引用文献)
・月桂冠社内誌『さかみづ』120号(1988年3月)

野立弁当
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