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伏見文庫(伏見にまつわるコラムなど)

伏見の生い立ち

今から400年前豊臣秀吉は、平安朝以来、近隣九ケ村の中心地にすぎなかった伏見に大城下町をつくり上げました。

まず、伏見丘陵の南端山頂に、豪華絢爛たる伏見城を築き、その周辺には、60余州に及ぶ諸大名の屋敷を配し、西側には町人の街並をつくり、その広さ東西4キロ、南北6キロに及び、その人口数万に達し、京、大坂、堺につぐ大きな城下町にしたのです。現在の伏見の街は、このときの城下町によってほぼその基礎がつくられたといえます。

秀吉はこの城をつくるため、宇治川を巨椋池(おぐらいけ)から切り離し、それを城山の真下へ迂回させて舟入(ふないり)とし、その流れの一部を町の中に引き入れ、城の外掘とするなど、河川の大改修を行いました。

この大改造が、その後の伏見の発展に大きく役立ちました。とくに酒蔵はそのほとんどが、この濠川に接して建てられ、明治末期まで、米、薪炭、樽材などの原材料から、出荷する酒樽に至るまで、すべてがこの川を上下する船で運ばれていました。

築城から30年後、三代将軍・徳川家光によって城は完全にとりこわされ、諸大名の屋敷も次々と取り払われ、かろうじて町人たちの街並だけが残りました。

幸いにも、秀吉、家康二代にわたって水運が整備されていたため、伏見は京、大坂、大津への交通の要となり、港町、宿場町、京の玄関口としてよみがえる兆しをみせ始めました。とくに、淀川三十石船に代表される伏見と大坂を結ぶ過書船が次第に増え、また角倉了以が作った高瀬川の水運も盛んになるにつれ、再び人々の往来も激しくなりだしました。

さらに、1635年(寛永12年)、参勤交代の制が実施され、西国大名はすべて伏見に暫く逗留せねばならぬことになり、このため4つの本陣や大名の屋敷が出来、馬借(ばしゃく)、車借(しゃしゃく)はいうに及ばず、飛脚問屋、運送問屋、材木問屋が軒を接し、舟頭町が出来、舟宿がひしめくようになって、港町・伏見は再び繁栄の道を歩み始めました。

(出典)
栗山一秀「月桂冠大倉記念館」『酒史研究』第6号、日本酒造史学会(1988年9月)

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