伏見城の城下町として、宿場町、港町として発展してきた伏見。京の街への玄関口となり、大坂・大和・大津とを陸路・水路で結ぶ交通の要衝として栄えていました。城下町時代の町割りによって現在の街路が形成され、界わいには古くは江戸期、明治、大正、昭和初期の面影をとどめる町家や酒蔵など、昔ながらの佇まいが見られます。
1828(文政11)年建造。第8代目当主・大倉治右衛門の時代、当社創業の地に建てられた酒蔵兼居宅。<(京都)市内では最大規模に属する町屋>(『京の住まい』より)とも言われています。内部には米の洗い場、吹き抜け天井の小屋組み、商いに使われた座敷など、昔ながらの酒屋の佇まいを残しています。表構えには、虫籠窓(むしこまど)、太めの木材を組み合わせた酒屋格子(さかやごうし)が見られます。屋根には瓦と漆喰、下地となる土をあわせ35トンが乗っており、その重みで構造の強度が維持されています。
1868(慶応4)年新春に勃発した鳥羽伏見の戦では、通りをへだて北側の建物や、その並びの船宿、町家の多くは焼失しましたが、大倉家本宅は羅災(りさい)をまぬがれました。幕末、維新の激変を経て、築180年以上を経た現在も、そのままの居様を残し、今日に受け継がれています。
虫籠窓(むしこまど)は、町家の表構えの2階部分にあり、縦方向の堅格子を土で固めた窓を指します。その様は、採集した昆虫を入れる虫カゴや、竹を編んで作った蒸籠(せいろ)を連想させることから、「虫籠」「蒸子」(むしこ)と表されました。窓枠が土で塗り固められることで、耐火性を向上させていました。
町家の表構えを構成する格子は、職業によって糸屋格子、仕舞屋(しもたや)格子、米屋格子、炭屋格子、御茶屋格子などの名称で呼ばれており、形状もそれぞれの仕事に対応した形で工夫されています。酒屋に見られる格子窓は、酒屋格子(さかやごうし)と呼ばれ、太く丈夫な木材を組み合わせています。酒樽や米俵を積み上げたり、大型の酒造用具を出し入れするため、頑丈な造りとなっているようです。
この格子は日々の丁寧な拭き掃除により、年を重ねるごとに角材が丸みを帯びるようになりました。
日中は格子状の引戸を開けて町家に出入し、夜間は板張りの大戸(おおど)を閉めて、その一部に設けた、くぐり戸から出入りします。現代の酒蔵でも町家の大戸・くぐり戸と同様、入口に引戸の「大扉」と、開き戸の「小扉」を設けています。大扉は大桶など酒造用具類を出し入れする際に開け、人の出入りには小扉を使うことで、昼夜の温度差を少なくし、できるだけ一定に保つようにしています。
江戸期に酒蔵兼居宅として建てられた大倉家本宅の玄関を抜けると、土間の三和土(たたき)が広がり、見上げれば吹き抜け天井の縦横に木材を配して屋根を支える小屋組みの梁(はり)が見られます。往時には、米を蒸すための甑(こしき)がその直下に置かれ、酒造りが最盛となる厳冬期には毎朝、もうもうと蒸気を上げていたことと思われます。その南側には石畳の洗い場があり、ここでは白米を笊(ざる)に入れ水洗いしていました。西側には商いに使われた座敷や広間などが配され、昔ながらの酒屋の佇まいを残しています。
町家の裏庭へ続く土間は「通り庭」と呼ばれ、竈(かまど)や炊事用の流しなどが配されています。竈の上には、煙や火の粉を抜けさせるための火袋(ひぶくろ)と呼ぶ吹き抜けが設けられています。
町家の玄関口の屋根上に、瓦で作られた 鍾馗(しょうき)像を見ることができます。魔除けのために祀られているもので、さまざまな意匠の鍾馗さんが家々を見守っています。鍾馗さんの起源は古代中国といわれており、剣を持った勇ましい武官の肖像をかたどったものを多く目にします。写真は「ギャラリー伏見」(京都市伏見区新町)の屋根に置かれた鍾馗さん(撮影協力:井上瓦重、 鍾馗像は非売品)。
犬矢来(いぬやらい)は、竹や木材を編んで、壁に立てかけるように設置したもので、その曲線の連なりが、街並みの美観のひとつとなっています。「やらい」は追い払うという意味をあらわし、犬や馬が家の壁を傷めないようにするため取り付けられました。同じ用途のものに、駒寄せ、駒塞ぎ(こまふさぎ)と呼ぶ、牛や馬をつないだ格子状の柵があり、伏見界わいの町家にもその意匠を見ることができます。
一文字瓦(いちもんじがわら)は、屋根瓦の庇(ひさし)の先端を切り取るように平らにしているもので、街路と並行して走ることにより、すっきりした印象を持たせています。大倉家本宅東側の塀や月桂冠旧本店正面の屋根には、一文字瓦が用いられています。
京都市による景観整備の一環として、2002年 、記念館に面した市道から旧本店にかけての電柱を地中化、土色に近い色彩のカラー舗装が施され、街灯や敷石の舗道が設置されました。界わいを探索すれば、昔ながらの街並みの中に、一文字瓦のしつらえを目にしていただくことができます。
明治期(1906年=明治39年)に建造された内蔵酒造場。「内蔵」の名称は、本宅に隣接する内蔵形式であることに由来します。南側(写真の左側)から「前蔵」「中蔵」、北寄りに位置する「奥蔵」で構成され、切妻屋根の白壁土蔵が軒を並べています。この蔵では、現在も昔ながらの手法で酒を造り続けています。日本酒の寒造りが最盛となる厳冬期には、蒸米や発酵によって醸し出される香りがあたりに漂い、酒どころの雰囲気が一層高まります。
酒林(さかばやし)は、神木である杉の葉を束ねて球状に整えたものです。昔は酒屋の看板として、新酒ができたことを知らせるため、軒先に新しい酒林を吊るしました。今では、酒神として有名な奈良の大神(おおみわ)神社(三輪明神)から授与される酒林をかかげることが通例です。
大きな引き戸の上に張った注連縄(しめなわ)は、神聖な酒蔵への入り口を区切る結界としての意味を持っています。
酒造りのシーズンのはじめには、大神神社(奈良県)、松尾大社(京都府)、梅宮大社(同)などの酒神に、各蔵の責任者らが醸造祈願のため参拝します。酒造りが近代化されても、作業の安全や良酒を無事に醸したいと祈る気持ちは同じ。麹づくりや発酵の制御室に神棚を設けたり、授与された神符を柱に貼付しお祀りしています。