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地酒
酒造技術は宮中から寺社、酒屋の酒、そして全国各地へ

清酒を知る - 清酒産業

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「地酒」は「その土地特有の酒」「その土地で造る酒」「専らその土地だけで飲まれる酒」と説明されてきました。「地酒」に対して、「大手メーカーの酒」はナショナルブランド(NB)とも呼ばれています。特に伏見と灘の酒は「主産地銘柄」とも言われ、大手メーカーが集中する京都府と兵庫県の日本酒の出荷数量はあわせて全国の5割に相当します。
「地酒」の中には、大手メーカーの出荷量に迫る規模のブランドもあります。その企業の地元だけでなく、大都市のデパート・酒専門店、各地のスーパーマーケットなどで広く販売されている銘柄も見られます。また、「大手メーカーの酒」も地元では、その土地の酒として親しまれています。こうしたことから「地酒」を一律に定義することは難しいといえます。
まずは、酒造りの技術が主産地から全国に広まっていった経緯から説明します。

主産地の始まりは京都・奈良

平安時代の宮廷のしきたりを記録した「延喜式」(えんぎしき)に、酒を造る役所「造酒司」(みきのつかさ)について書かれています。その酒造技術はたいへん高度なもので、水の代わりに酒を用いたり、濾したモロミに麹や蒸米を何度も仕込むといった複雑な方法がとられていました。
鎌倉時代初期になると、こうした朝廷の酒造り技術は民間に流布し、京都、奈良などでは「酒屋の酒」が登場しました。室町時代も中期になると、京都の造り酒屋の発達はめざましく、洛中洛外合わせて342軒を数えるほどになり(1425年)、その中には「柳酒屋」「梅酒屋」など著名な銘柄も出てきました。 また、寺院や神社でも高度な酒造りが行われ、特に戦国時代後半になると、奈良の諸白酒(もろはくざけ=麹用の米、もろみ仕込用ともに精白した米を用いた酒)が「南都諸白」(なんともろはく)と呼ばれ、名声を得るようになりました。
こうして京都・奈良で培われた酒造りの技術は、その後各地に伝わっていき、米の産地や原料米を確保しやすい港湾地、水が良く豊富なエリア、城下町、門前町、商業地など人々が集まる地域に、「田舎酒」と呼ばれた新興の酒の産地が次々に誕生しました。その多くは中央の権力者が召し上げたり、地方からの贈答品として評判になりました。
応仁・文明の大乱によって、京の酒屋が大きな打撃を受けたのを機に、これら「田舎酒」は「地酒」として洛中の市場に進出していきました。

伏見の酒造り発展の要因

伏見・灘の興隆

元禄時代になると、伊丹・池田・鴻池など上方(かみがた)の酒が、政治・経済の中心地となった江戸で消費されはじめ、江戸時代中期以降になると、灘の酒が大きく発展しました。当時、江戸で消費された酒の7割から9割が「下り酒」(くだりざけ)と呼ばれた灘酒でした。
灘では、酒造りに適した米が容易に得られたこと、「宮水」と称される名水を取水できたこと、丹波・但馬など酒造技術を持った杜氏の故郷が近郊に所在したこと、また「樽回船」による海上輸送で大量輸送できたことなどにより酒産業の集積が見られました。
一方、京都盆地の南端に位置する伏見でも、古くから酒造りが行われ、5世紀頃の渡来系氏族がもたらした技術や、朝廷の造酒司(みきのつかさ)で行われた高度な酒造りの影響を受けながら歩みを続けてきました。1594年(文禄3年)の伏見城の大城郭造営に伴い城下町が整備されたことが契機となり酒産業が集積、産地としての本格的な発展が始まりました。伏見が酒どころとして広く知られるようになっていくのはこの頃からです。宿場町、港町となった江戸時代には、地元の人や旅人たちに消費されていました。明治時代の半ばになると、当時広がりはじめた鉄道網を通じて東京方面への販売を開始すると共に、技術革新への積極的な取り組みで、灘と並ぶ主産地へと成長しました。

コップ付き小びん▲どこでも飲める「コップ付き小びん」を考案し、実用新案登録された。キャップをひっくり返すとそのまま猪口になるもので、今日のアウトドア商品の先駆けといえるアイデア商品。これが、明治末期の1910(明治43)年、「駅売酒」として当時の鉄道院(国有鉄道)で採用され、当時の鉄道網の広がりと共に、月桂冠の名を全国に知らせることにもなった

地域による酒質の特徴

酒の甘辛を指標として見てみると、例えば、瀬戸内海地域は甘口、高知・富山・新潟は辛口の酒といった地域的な特徴が、その土地の風土や習慣、食べ物の嗜好などさまざまな要素により形作られてきました。
しかし、確かにこのような側面も見られますが、一方で、同じ産地の中でも個々の蔵元によって特色は多様です。現在、日本酒メーカーは全国に千数百軒存在していますが、その規模、経営方針、酒の造り方、品質管理、酒質や価格帯などはさまざまです。

井戸

「地酒」ブーム

日本酒の主産地、伏見、灘を抱える関西地区では、酒産業の集積により、酒造メーカーのほかに、醸造資材や機械メーカーなどが集中しています。日本酒大手メーカーは、その歴史と実績、研究開発で蓄積した技術力などによって安定した品質の酒を供給することが可能です。全国各地のメーカーの中には、一定のレベルの品質まで到達できない酒もありました。それが、全国的な酒造技術の向上によって、ほとんどのメーカーが多くの人の求める飲みやすい酒をめざすようになりました。その結果、昭和40年代以降、酒の味が単一化していると見られる向きもあり、消費者は品質の多様化を「地酒」に求めるようになりました。
ちょうどそのころ、「ディスカバージャパン」「地方の時代」「ふるさとへの回帰」などが郷愁をもって語られ、ふるさと志向がブームとなりました。それにつれ、「地酒」への関心も高まり、新潟・秋田・広島などの酒の消費量も次第に増えていきました。
こうしたなかで各地のメーカーは、あえて「地酒」であることを強くアピールするようになり、また吟醸酒・純米酒・本醸造酒などを戦略商品として前面に打ち出すところも出て、多くの「地酒」が大都市の飲食店にも参入するようになりました。さらに、地酒ブームの中では、特定のルートでしか販売されない「幻の銘酒」と呼ばれるものも出てきました。

大手メーカーへの誤解

地酒蔵には、「良心的な酒蔵」が「伝統的な手造り」で、「吟醸酒・純米酒・本醸造酒などの特定名称酒や個性的な酒を造っている」というイメージが生まれました。その一方で、日本酒大手メーカーはテレビ宣伝も活用することから「テレビ銘柄」と揶揄され、「地酒メーカーは、大手が広告宣伝にかける費用を品質向上のために使っている」「大手メーカーは普通酒ばかりを大量生産し、おいしくない」など、いわれのない誤った情報が流され、一方で、昔は蔑称だった「地酒」のイメージが向上し、地方の酒がクローズアップされるようになりました。
しかし実際には、「地酒」メーカーでも特定名称酒だけでなく普通酒もたくさん造っており、また大手メーカーも、長年の研究開発で培った技術力を生かし、高品質の大吟醸酒や純米酒などを多く造り、全国新酒鑑評会での金賞受賞などの実績も積み重ねています。

地酒メーカーも脱・手造りへ

酒を造るのはあくまでも麹菌や酵母などの微生物であり、いわゆる手造りの酒と先端技術を駆使して造った酒とを比べてみても、根本的な品質差は認められません。さらに、酒造工程の技術革新や特徴ある酵母の開発などの新しい技術の進歩によって、全国的に酒質のレベルは向上してきました。また、杜氏による手造りが主流だった地酒メーカーも、昨今の杜氏・蔵人の後継者不足に対応するために、最新の醸造システムを取り入れる蔵元、経営者自らが酒造りを行う例も見られます。

酒造技術が酒質を左右する

ワインは収穫したブドウをつぶし、果汁に含まれる糖分をそのままアルコールへと発酵させているため、ブドウ果実の出来・不出来がそのまま酒質に大きく影響します。
日本酒は、米というきわめて淡泊な香味をもった原料を用い、米デンプンの糖化と、その糖分のアルコールへの転換を同時にバランスよく進める、並行複発酵という複雑な醸造法をとっています。そのため、年ごとの米質などの条件に応じ、酒造工程の途上で、麹づくりや発酵の進め方において制御可能なステップが多くあり、その調整により、たとえ米が不作の年でも、優れた技術があれば通常の年と変わらない良質の酒を醸造することが可能です。
このように日本酒は酒造技術が品質に与える影響が大きい酒です。従って、「大手メーカー」か「地酒メーカー」かに関わらず、技術力の高さが良い酒を醸すための基本条件であると言えます。

【出典】
  • 月桂冠株式会社・社内誌 『さかみづ』 158号 (1995年9月)
【参考文献】
  • 秋山裕一 『日本酒』 岩波新書(1994年)
  • 加藤百一 『日本の酒5000年』 技法堂出版 (1987年)
  • 坂口謹一郎・監修 『日本の酒の歴史―酒造りの歩みと研究―』 協和発酵工業株式会社(1976年)
  • 小泉武夫 『日本酒ルネッサンス』 中公新書 (1992年)
  • 篠田次郎 『日本の酒づくり』 中公新書 (1981年)
  • 日本醸造協会 『お酒おもしろノート』 技報堂出版 (1995年)
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