月桂冠中興の祖 大倉恒吉 物語

第四章 報恩の想い

陰になり日なたになり支援していただいた町の人たちや同業者たち 数々の恩に報いたい

地域からのご恩を原動力に「社会事業家」として邁進

母の死 母の死

母のヱイが、1923(大正12)年11月2日、77歳で世を去った。恒吉50歳の時だった。地域のために尽くし続けた父の面影、恒吉を厳しく鍛えながらも優しいまなざしを注いでくれた母との苦労の日々。恒吉の脳裏には、父母と共に時代を生き、思いをかけてくれた多くの人たちのことがよぎった。

恒吉の母・ヱイ
恒吉の母・ヱイ

突然、13歳で家業を継ぐことになった時、「なにくそ」という激烈な思いで酒造りの見習いに精進した、その日常、恒吉は町の人たちの温かい眼差しに支えられ、伏見で酒屋を営む同業の主人たちからも教えを請うなど折々に助けられた。

伏見の酒屋では、毎秋、酒造りのシーズン入りを前にして、酒の神様・松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)へ参拝することになっている。若干14歳で初参加の恒吉も同行、当主となった翌秋のことであった。参拝後は伏見に戻り、宇治川畔の料亭で懇親会が催された。恒吉は末席に座り、恐る恐る挨拶した。この時、蔵元の代理人として参加していた幾人かが恒吉より上座に座っていた。それを見た伏見酒造組合長は代理人たちを退け、恒吉を2~3席上席に座らせた。地域や伏見の酒造業界に尽くした10代目の大倉治右衛門を相続し、少年の身とはいえ、当主として出席していることに配慮しての温情であった。

母の遺志 母の遺志

大倉家の年若い相続人が苦労しているのを見て、町の人たちや同業者らが、陰になり日なたになり、恒吉を支援していた。

「伏見の人たちや同業者から受けた数々の恩に報いたい」。

母が亡くなって3日後、恒吉は、伏見で初めての町立病院建設のために、用地や医療器具の購入資金を寄付した。これは亡き母の遺志によるものであった。病院の設立後も、設備の充実のために寄付を続け、援助を惜しまなかった。

伏見町立病院(『京都府伏見町誌』より)
伏見町立病院(『京都府伏見町誌』より)

この病院への寄付にとどまらず、すでに地域への恩返しに黙々と取り組んでいた。1922(大正11)年、慈善団体が幼稚園(現在の住吉西保育園=京都市伏見区舞台町)を開設した際には、園舎の整備や教材の寄付などで後援した。その後も経常費の負担、増築のための建築費や土地を寄付して園の充実に努めた。現在でも月桂冠から、園の理事を担当させていただくなどのご縁が続いている。

地域の若者たちの教育にも気を配った。大正時代初期頃から、奨学金や学資金として、府立中学校、高等学校の学生への支給を始めたのである。学費の補助を受けた学生たちからは、卒業後も、上級学校への進学や結婚など近況報告を含んだ礼状が恒吉に送られてきた。ほかにも、夜間商業学校などに、たびたび寄付を行い、地元の青少年たちの将来の活躍、そして社会の発展を願ったのである。

また、地域の消防活動を充実させるため、1921(大正10)年、自社に消防ポンプ車を設置し、公共での活用にも供した。酒屋は火を使うことが多く、火災の種は尽きない。恒吉は火の用心を日頃からやかましく店員に注意していた。その思いから、さらに、地域に消防署を設置するため、1931(昭和6)年、本店西側の土地を寄付、現在も京都市消防局伏見消防署の南浜消防出張所として、消防隊、救急隊が駐留している。

手動式の消火ポンプ「応龍水」(おうりゅうすい)
手動式の消火ポンプ「応龍水」(おうりゅうすい)。「笠置屋」のマークが本体の中央に彫り込まれ、黒漆が塗られている。横面には鳥羽伏見の戦いの2年前、慶応2(1866)年を示す銘が刻まれている。酒造りでは米蒸し、加熱殺菌など火を使う工程が多く、火災に備えてこのような消火ポンプを設置していた(月桂冠大倉記念館・蔵)

恒吉は、事業の再興に苦労していた時代に援助を受けた同業者への恩返しも忘れなかった。同業者が廃業の危機に陥った時には、金銭面や酒造場の借入などで酒造りの再開を助けた。先代の酒造家から受けた恩義を、次の世代に対して報いる形で、伏見酒造業の振興、発展に力を注いだ。

伏見全町の総氏神、御香宮神社の境内には、1934(昭和9)年、地域の集会所として参集館が建てられ、恒吉はこの建設費用の全額を寄付した。現在でも地域の行事や集会に活用されている参集館の前庭には、恒吉の地域への様々な貢献に対して、1960(昭和35)年、「大倉恒吉翁遺徳顕彰 記念植樹」の石碑が建てられている。

「大倉恒吉翁遺徳顕彰 記念植樹」の石碑(御香宮神社境内)
「大倉恒吉翁遺徳顕彰 記念植樹」の石碑(御香宮神社境内)

ゆりかごのように守り、支えてくれた京都・伏見への想い ゆりかごのように守り、支えてくれた京都・伏見への想い

こうして恒吉は、酒造家でありながら社会事業家としての色合いを強めて行った。13歳で家業を相続し、無我夢中で酒造業に専念、苦労を重ねる中で授かった、恩に報いることを忘れず、社会事業に取り組むようになったのである。その報恩の気持ちはどのように育まれていったのか。

もともと、大倉家では代々、神仏への崇敬の念が強く、信仰心が篤かった。そんな環境の中で、恒吉に神仏への祈りの気持ちが養われた。社寺への参拝や寄進を欠かさず熱心に行うことでその伝統が身につき、自らを律する態度も堅持するようになっていった。

そして何よりも、ゆりかごのように守り、支えてくれた京都・伏見の地、そして地域の人たちから思いを掛けていただいた、そのことが、恒吉の報恩の気持ちを一層強めた。地域の人たちに導かれるようにして、経営面で成功し、社会への貢献にも力を入れるようになり、経済性と社会性との両立を果たすこととなった。

その恒吉の想いは、のちの世代にまで継承されている。12代目、13代目、そして14代目の現在に至る時代時代の当主が、社会への貢献に取り組む姿勢を受け継ぎ、多くの公職を担って、先頭に立ちコツコツと地域へのお役立ちに取り組んでいるのである。

13代目の大倉敬一(1927年~2016年)
13代目の大倉敬一(1927年~2016年)。伏見の濠川・宇治川派流沿いでの清掃活動に参加するなど、先頭に立って観光都市・京都の美観を保全する活動に取り組んだ。約160団体の200以上もの公職を担い、生涯を日本酒、伝統産業、京都の発展に尽くした

月桂冠の「中興の祖」となった11代目の大倉恒吉は、1950(昭和25)年11月17日、77歳で生涯を閉じた。菩提寺の松林院(現在の月桂冠本社の南側に隣接)で同25日に告別式が行われた。その後5年を経ずして日本社会は高度成長期に突入、清酒の需要も大幅に拡大する前夜のことであった。

月桂冠11代目当主・大倉恒吉

【参考引用文献と資料】

  • 教道誌之(松林院第二十三世) 『大倉家第十代追懐叢事録』 (1935年)
  • 『月桂冠 三百六十年史』 月桂冠株式会社 (1999年)
  • 「大倉恒吉手記」 『月桂冠 史料集』 月桂冠株式会社 (1999年)
  • 京都府立京都学・歴彩館開館記念展示「京都の歴史を彩る人々―近代編―」(2017年7月22日~10月8日)
  • 伏見町役場『京都府伏見町誌』 (1929年)
  • ※登場人物の年齢は、数え年で表記した。
  • ※「治右衛門」の名は、大倉家の第10代までが襲名してきた。本稿のテーマとなっている明治期の11代目は、幼名の恒吉を名乗った。現当主は第14代目にあたる。
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