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語り継ぐ:阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)から20年
手記「1月17日午前5時46分」
小林壽明(元・月桂冠杜氏)

2015年1月14日

1995年(平成7年)1月17日、午前5時46分に発生した兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災の発生から20年。兵庫県の灘を中心に集積する酒造業者でも、当時、大きな被害を受けた。月桂冠株式会社(本社:京都市伏見区)の灘蔵(神戸市灘区、2003年3月で操業を終了)では、この地震により蔵人の数名が負傷したが、全員の無事を確認。しかし設備については、木造の酒蔵など合わせて11棟が全壊したほか、屋外貯酒タンク3基が傾斜、倉庫内では製品が散乱した。この灘蔵で兵庫県但馬地区出身の蔵人を率いて寒造りの只中に被災した、元・月桂冠杜氏の小林壽明氏から、月桂冠の社内誌『さかみづ』157号(1995年5月発行)に寄稿された、当時の手記を採録した。

 

震災で全壊した月桂冠灘蔵の貯酒庫(西蔵)。木造の酒蔵などあわせて11棟が全壊した。右奥に見える若宮神社の鳥居や神殿も崩れた(1995年1月27日撮影) 倒壊した仕込み蔵の内部。わずかなすき間から脱出した。崩落した蔵の屋根を発酵タンクが支え、打撲やすり傷などの軽傷ですんだ(1995年2月2日撮影)

震災当日の平成7年1月17日、灘支店蔵人15人は、朝、早目に蔵の作業にかかっていた。

粕離しに4名、蒸米機付近に1名、酒母室に2名、四段タンク近くに頭(注:かしら、杜氏補佐)がいた。出麹準備のため、代司(注:だいし、麹製造主任)と助手、仕込係が乙蔵の入口にいた。私は特別吟醸の仲麹が室(注:むろ、麹製造室)に入っていたので、前夜から2時間おきに室へ通っていた。

3回目の積み替え作業(注:麹づくりの操作の一つ)のため、午前5時35分頃室に入り、積み替えをしようとした時、突然建物を突き上げる様にダダダ・・・・・・というものすごい音とともに振動があり、すぐ停電になった。とっさに床(注:麹室中央の作業台)の下にもぐり、5秒程して振動が止まった。手さぐりで出口を捜した。脱出するには、モト2階(注:酒母室の2階)に通じる通路と階段を降りて外に出る通路があるが、まず2階に通じる方向に行きかけてびっくりした。停電で真っ暗なはずのところが夜空けの空が見え、ものすごい土煙が上っていた。その下にペシャンコになった蔵が見えてまたびっくりした。

これはたいへんなことになっている。蔵人の声も聞こえないし、その下で作業している人は無事でいるはずがないと思った。行きかけた方向には行けず、下に通じる階段を降りて前蔵の崩れている間を通って外に出た。その時履物は片方脱げ、メガネのレンズは何かに顔をぶつけて片方割れた。とりあえず門衛の前まで走った。会社中の防火ベルは、けたたましく鳴り渡っている。

皆を捜そうにも捜しようがなく、まず懐中電灯を取りにまた前蔵に戻った。倒壊しかけた建物に入り、懐中電灯を3個持ち、門の広場で皆が集まってくるのをうす暗い中、待った。皆、それぞれ「誰はいるか」、「誰はいるか」と確認し合って、ほとんど集まったと思ったら、1階にいた残りの一人が見当たらず、皆で蔵に戻り声をかけたら、崩れた屋根の上で返事があった。降りるところを懐中電灯で照らしてやり、崩れたところをつたって降りて、全員の無事の確認ができてほっとした。日頃から懐中電灯の位置を確認していたのがよかったと思う。

次にまず何をすればよいか。「ガスを止めたか」という声があり、ボイラー係が止めたとのこと。炊事係も「ガスは止めて来た」という。地震に火事はつきもの。頭(かしら)は、郷里で消防団長でもあり、蔵人のほとんどが消防団員の経験者なので、すぐに車庫よりポンプ車を出して準備をした。そこで気になりだしたのが郷里の家だが、まず本社に連絡報告しなければと思った。

当日会社に居合わせた社員は、当直のO君と寮生のN君(神戸支店)、ガードマンのSさんの3人だった。事務所の電話は通じない。N君が携帯電話があるというがそれも通じず、そうこうしているうちに門の前に白米を運んできて朝を待っていたトラックの運転手から白鶴の大石工場の公衆電話が使えると聞いた。持ち合わせのテレホンカードは使えない。10円、100円玉だったら通話できるようだが持ち合わせがない。電話番号も覚えていないので、小銭を持ち合わせていたN君に、とにかく本社に状況を報告してくれるように頼んでおいて、構内に戻った。時間は分からないが、6時過ぎではなかったかと思う。前の神戸製鋼では工場内からものすごい黒煙が立ち上がっているし、市街地では方々で火災の火の手が上がっているが、消防車のサイレンさえ聞こえない。

その後、何をどうすればよいか、気も動転しているし、酒も流れ出ているのは分かっているが、電気が使えずどうしようもなく、2時間ほど無駄な時間を過ごしたような気がする。何かしなければと思い、会社の鉄の門が内側に倒れているのでフォークリフトを持って来て起こした。屋外タンクからせっかく造った酒が流れている。何とかならないかと思いついたのが消防ポンプでの移動だった。消防ポンプの吸管はタンクに取り付けできないので、待ち桶(注:酒の移動を中継するためのタンク)に酒を出して、その中に吸管ホースを入れて移動する準備をした。しかし、いざポンプを始動しようとするがエンジンが始動しない。頭(かしら)をはじめ機械にくわしい人が工具を出してあれこれ始動したが、30分位かかった。火災でなくてよかったようなものの、いざという時には役に立たないところだった。精米所の前のタンクと調合室横のタンク2本、ぶっ通して移動したが、午後4時過ぎまでかかった。

伏見酒造組合の救援活動として、京都・伏見から大型タンクローリー車を派遣、病院や近隣住民向けの給水を行った(1995年1月24日撮影)

社員の人もぼつぼつ来てくれていたので、東側の塀を起こしたり、蔵人は昨夜より食事をとっていないので、工務のHさんに発電機を利用してカッターを動かし、ドラム缶を切ってもらい、炊事係にハガマ(羽釜)で飯を炊いてもらった。おにぎりを作って社員に出し、蔵人も酒ポンプ移動のあい間に交替で食事をした。自分はいちばん後で食事に行ったが、釜の底の方はゴッチン飯(堅い飯)で食べられなかった。水は仕込み水を利用できたので助かった。

そうこうしているうちに夜になり、蔵人は宿舎や車の中で寝た。私は宿舎で寝たが、寒い上に真っ暗だった。余震が来る度に布団をかぶって朝を待った。夜が長く感じた。

地震前までは皆で一致団結してがんばっていたのに、一瞬にして無残な姿になっていて涙が出た。あとで聞けば、一部の蔵人は軽傷だが打撲、すり傷を受けていたようだった。自動車も2台中破していた。

地震より半月余り過ぎても、皆、テレビを見ても娯楽番組は見る気がしないと言っていた。私自身も、時々被災に関連した夢を見る。(後略)

 

小林壽明(こばやし・としあき、元・月桂冠杜氏、但馬流)

1940年(昭和15年)12月生まれ。兵庫県美方郡香美町村岡区出身。昭和34酒造年度(1959)から、酒造蔵元で冬季の寒造りに従事。昭和36(1961)~38酒造年度、昭和56(1981)~63酒造年度は月桂冠で勤務。再び平成3酒造年度(1991)から、月桂冠で杜氏として勤務。震災の翌年からは伏見に移り、平成22酒造年度(~平成23年3月)まで吟醸酒造りを担当した。月桂冠で杜氏として従事した期間には、全国新酒鑑評会(独立行政法人酒類総合研究所と日本酒造組合中央会とが共催)で、入賞酒の中でも特に優秀と認められたものに授与される「金賞」 を14回受賞している(平成3、平成4、平成7、平成8、平成9、平成10、平成11、平成12、平成13、平成15、平成19、平成20、平成21、平成22の各酒造年度)。

※酒造年度(BY=Brewery Year)は7月1日から翌年6月30日までの1年間。