新選組、伏見へ

伏見奉行所

1867年(慶応3年)10月14日、最後の将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返上し、幕府による支配体制が終わった。12月9日、王政復古の大号令が発せられ、武家政治が廃止となったのを機に、幕府側の新選組は京の二条城へ警護に入った。しかし、将軍の命によりすでにその役目に就いていた水戸藩と対立し、京を離れることとなった。新選組は大坂へ一旦入ったものの、京から大坂への途上に位置する伏見まで引き返した。12月16日、新選組は近藤勇を隊長に、副長の土方歳三、副長助勤の沖田総司らをはじめ総勢150名が、幕府軍勢が陣取る伏見奉行所で伏見の警護に加わった。

伏見鑑の伏見奉行所
江戸時代の伏見の名所を紹介した『伏見鑑』(ふしみかがみ、月桂冠史料室・蔵)に、伏見奉行所の門構えが描かれている。安永年間(1772~1780年)発行。奉行所は、現在の桃陵団地、伏見公園、桃陵中学校のあたりに所在していた。奉行前町、西奉行町、東奉行町などの地名を現在に伝えている(いずれも京都市伏見区)。

四ツ辻の四ツ当り(伏見の遠見遮断)

その伏見奉行所を防衛するために、敵軍からは見通せないようにした街路が現在も残っている。油掛通りと、200メートル南の立石通りが東西に平行して走り、いずれも奉行所から400メートルほど西へ行ったあたりで竹中町通りと交わる。そこは街路がL字型、T字型に突き当たる遠見遮断の構造となっている。敵軍からは遠くまで見通せず、まっすぐ攻められないようにするためである。どこから来ても突き当たることから「四ツ辻の四ツ当り」とも呼ばれる。
鳥羽伏見の戦いでは、遠見遮断のあるこのあたりでも激しい市街戦が繰り広げられ、街路に沿った多くの家屋が戦災に遭った。

東本願寺伏見別院
油掛通りの突き当たりの北側(現在の伏見幼児園)に、かつて伏見御坊と呼ばれた東本願寺伏見別院があった。鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍の会津藩が本陣を置いた。その戦災で損傷を受けた御堂は、1885年(明治18年)に建て替えられ、1990年(平成2年)まで存在した。しばらくの間は山門だけが残り、その象徴となっていたが、2014年、新たに御堂が建てられている。

大倉家本宅

立石通りの四ツ辻の四ツ当りに面して居様を見せる「大倉家本宅」(京都市伏見区本材木町)は、19世紀前半に普請された酒蔵兼居宅である。幕末、維新の激変を経て、築200年近くの歳月を経た現在もそのままの姿を残し、月桂冠本社西側に現存、今日に受け継がれている。 <(京都)市内では最大規模に属する町屋>(『京の住まい』)とも言われている。
内部には米の洗い場、吹き抜け天井の小屋組み、商いに使われた座敷など、昔ながらの酒屋の佇まいを残している。表構えには、虫籠窓(むしこまど)や、太めの木材を組み合わせた酒屋格子(さかやごうし)が見られる。屋根には瓦と漆喰、下地となる土をあわせ 35トンが乗っており、その重みで構造の強度が維持されている。

大倉家本宅前の遠見遮断
伏見奉行所跡から立石通りを西へ400メートルほど来たあたり。月桂冠本社を経て、大倉家本宅と月桂冠旧本社(犬矢来を施した手前の建物)前の街路がL字に配置されている。伏見奉行所に対しての遠見遮断である。ここから西(右方向)は「南浜通り」と名を変え、寺田屋浜、京橋(濠川にかかる竹田街道の橋)に至る。

(参考文献)
・京都市文化観光局文化部文化財保護課・編『京の住まい-地域の文化財としての民家-』京都市文化財ブックス第8集(1993年)
・京都市立伏見南浜小学校『郷土誌 伏見南浜(創立130年記念誌)』(2002年)
・平尾 道雄『定本新撰組史録』新装版、新人物往来社(2003年2月)
・松浦 玲『新選組』(岩波新書) 岩波書店(2003年9月20日)
・宮地 正人『歴史のなかの新選組』岩波書店(2004年3月25日)