1866年(慶応2年)1月の寺田屋での襲撃で、濠川辺りで救助された龍馬は、薩摩藩伏見屋敷にかくまわれ、しばらくの期間、傷を癒した。日本最初の新婚旅行の出発地としても知られており、同年3月、龍馬と妻のお龍は、ここから薩摩に向け旅に出た。
またここは、天璋院篤姫の洛中洛外滞在時の宿泊地でもあった。参勤交代の際、島津家の歴代当主が立ち寄った場所であり、1853年秋には、篤姫が江戸へ向かう道中、1週間滞在し、ゆかりの深かった東福寺や万福寺を訪ねたとの記録が残っている。篤姫付きとなる前の幾島も、出家の身で一時期居住していた。
薩摩藩伏見屋敷としての所在は少なくとも1670年(寛文10年)までさかのぼれるという。同年描かれた古地図に薩摩屋敷であることの記述が見られる。この場所(京都市伏見区東堺町)は、その後、月桂冠の大賞蔵となった。現在は月桂冠の関連会社、松山酒造が操業している。
酒蔵兼居宅「大倉家本宅」は、19世紀前半に普請されたもので、坂本龍馬が伏見に立ち寄った1850から60年代にはすでに存在していた。幕末、維新の激変を経て、築180年以上を経た現在もそのままの居様を残し、月桂冠本社西側に現存、今日に受け継がれている。 <(京都)市内では最大規模に属する町屋>(『京の住まい』)とも言われている。
内部には米の洗い場、吹き抜け天井の小屋組み、商いに使われた座敷など、昔ながらの酒屋の佇まいを残している。表構えには、虫籠窓(むしこまど)、太めの木材を組み合わせた酒屋格子(さかやごうし)が見られる。屋根には瓦と漆喰、下地となる土をあわせ 35トンが乗っており、その重みで構造の強度が維持されている。
本宅前には、400メートル東の伏見奉行所を防衛するために、敵軍からは見通せないようL字型に配された遠見遮断の街路が現在も残る。
(参考・引用文献)
・京都市文化観光局文化部文化財保護課・編『京の住まい-地域の文化財としての民家-』京都市文化財ブックス第8集(1993年)
大倉家本宅の北西方向、月桂冠情報センターのある一帯には土佐藩邸があった。鳥羽伏見の戦いで土佐藩は、藩主から参戦を禁止されていたが、板垣退助の密命で一部の藩士が参戦した。その後、この場所には、伏水第三校(現在の伏見南浜小学校の前身)が設置された(1872年=明治5年)。大名門と呼ぶ門があり、軍役所や役場も設かれていたようだ。2009年12月26日には、 伏見土佐藩邸跡を示す石碑が建立された(写真は同日の石碑除幕式、伏見観光協会と伏見納税協会青年部会が建立した)。