龍馬が逗留していた寺田屋。昔ながらの面影を感じさせるこの史跡を訪ねる人々は多い。鳥羽伏見の戦(1868年=慶応4年1月3日)で、この一帯は激戦地となり、かつての建物は焼失したことを京都市が確認した。かつての建物があった場所は、現在、史跡庭園の趣となっており、龍馬像も建つ。西側の旅籠は、旧宅にならう形で明治期に建てられたという。庭園にある寺田屋騒動(1862年=文久2年)で戦死した倒幕派薩摩藩士の石碑には、旧宅の跡であることを示す「遺址」の文字も見られる。
寺田屋の旧跡地、旅籠の建屋は見学が可能(10:00から15:40まで受付、16:00営業終了、大人400円)。
(参考文献)
・『伏見史跡 坂本龍馬の寺田屋』(寺田屋パンフレット)
・伊助『史跡寺田屋説明書』(寺田屋で販売中の冊子)
・中村武生『京都の江戸時代をあるく』文理閣(2008年)
1866 年(慶応2年)1月24日の午前3時頃、寺田屋に滞在中の龍馬が、伏見奉行所の幕府役人に襲撃された。龍馬はピストルで応戦しながら追っ手をかわし、裏階段から庭に出て、隣家の雨戸を蹴破り裏通りに逃れた。手指を負傷しながら5町ほど(500~600メートル)走って濠川に達し、水門を経て入り込んだ屋敷裏手の材木納屋で救援を待った。
(参考文献)
・宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社学術文庫(2003年)
寺田屋での龍馬襲撃に関する新史料(「京都土佐藩邸関係資料」)が発見され、高知県が購入したと2009年12月に報道された。伏見での龍馬の足取りが明らかになったとして関心を集めている。伏見奉行所が幕府(京都所司代)に報告した写しを、京の土佐藩邸の控えとして保存されていたもの。龍馬の手紙や長府藩士の三吉慎蔵の日記ではわかっていた当時の足取りが、幕府側の記録から検証できる点で貴重という。
龍馬の逃れた材木納屋は、写真後方に見える大手橋の手前にあった。新史料には、材木納屋の所有者は「近江屋三郎兵衛」で、濠川東岸(写真では右岸)の「村上町」にあったことや、「余程血をしたたらし(龍馬の)左の腕」などの記述がある。傷を負った龍馬は薩摩藩の舟に救出され、紀州藩伏見屋敷(現在の月桂冠昭和蔵、右後方)の横を通過し、薩摩藩伏見屋敷(現在の松山酒造=月桂冠関連会社)に向かった。
(参考・引用文献)
・高知新聞「寺田屋事件で龍馬新資料、追跡側報告書」(2009年7月15日付)
・毎日新聞「寺田屋事件直後を描写、伏見奉行所の報告写し」(2009年12月16日付)
・高知県立坂本龍馬記念館「京都土佐藩邸関係資料報告会」での説明(2009年12月23日)
・高知県立坂本龍馬記念館「京都土佐藩邸関係資料について」(2009年12月23日・配布資料)