伏見城と城下町

伏見城の変遷

京都盆地南端の伏見は、巨椋池を臨む風光明媚な土地として、平安期から貴族の別荘地となっていた。その指月の岡(京都市伏見区桃山町泰長老)に、豊臣秀吉が隠居屋敷を設けたのが伏見城の始まりである。指月城についてはこれまで、その存在や位置が明らかでなかった。平成27年(2015年)4月から実施された「伏見城跡(指月城)発掘調査」により、伏見城最初期の遺構が発掘された。石垣の石材や大規模な堀の跡のほか、桐紋や菊紋入りの金箔瓦など最高位の為政者の居城を示すような遺物も見出された。
その後、本格的な伏見城の城郭が造営されるも、大地震や戦災により、度々再建を重ねている。徳川時代には、家康をはじめ、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が、伏見城で征夷大将軍の位を受けた。政治の中心地として、伏見は当時の首都であり、政策上、重要な土地だった。伏見城の変遷を次に示す。

【豊臣秀吉・秀頼時代】
1592年(文禄元年)
巨椋池を臨む指月の岡に屋敷を造営【伏見城・第一期】。
1594年(文禄3年)
本格的な城郭の伏見城造営(指月の岡)、大城下町を整備【伏見城・第二期】。
1596年(慶長元年)
慶長の大地震発生により城が倒壊。
1597年(慶長2年)
伏見城(木幡山城)を造営【伏見城・第三期】。
1598年(慶長3年)
伏見城で豊臣秀吉が死去(62歳)。
【徳川家康・秀忠・家光時代】
1599年(慶長4年)
徳川家康が伏見城西の丸に入る。
1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いの前哨戦「伏見城の戦い」で、伏見城は東軍の城として、西軍に包囲され炎上。
1601年(慶長6年)
伏見城(木幡山城)を再建【伏見城・第四期】。
1603年(慶長8年)
徳川家康が伏見城で征夷大将軍の位を受ける。
1605年(慶長10年)
徳川秀忠が伏見城で征夷大将軍の位を受ける。
1619年(元和5年)
伏見城の廃城決定。
1623年(元和9年)
徳川家光が伏見城で征夷大将軍の位を受ける。
1624年(寛永元年)
伏見城廃城。

伏見城の石垣に使われたとされる石材
伏見桃山陵の明治天皇陵に続く参道の脇には、伏見城の石垣に使われたとされる石材が置かれている。

伏見城最初期の指月城が発掘された現場

唐草文様入りの金箔瓦
伏見城最初期の指月城が発掘された現場(写真上)と、出土した唐草文様入りの金箔瓦(「伏見城跡(指月城)発掘調査 現地説明会」にて、2015年6月20日撮影)。発掘調査により、「本丸の主要施設が存在した中心的なエリアの西辺段に沿って設置された石垣と堀であった」(同説明会資料)と推定されている。

伏見城御舟入の燈明
伏見城御舟入の燈明。慶長の大地震発生により城が倒壊、1597年(慶長2年)、第三期の伏見城を木幡山に再建するにあたり河港となる御舟入が開かれた。その御舟入があった辺りに燈明の一つが残されている(京都市伏見区駿河、京阪宇治線の桃山南口の北方向)。左側の窓は三日月の形に彫刻されている。後背斜面の丘の上にはJR奈良線が走る。

伏見は「銀座」発祥の地

1601年(慶長6年)、伏見城の城下町に徳川家康が日本で初めてとなる銀貨の鋳造所を設けた。ここで造られた銀貨は、慶長丁銀と、その補助貨幣として使われた慶長豆板銀である。伏見の街にあった銀座は、1608年、京の街に移った。ちなみに江戸の銀座は、駿府から移されたものである。

「銀座」跡
伏見城大手門から続き、街中を東西に貫く大手筋と両替町通との交差点の北西に位置する「銀座」跡。ここから北へ4ブロックにわたり、「銀座」の地名が残る(1丁目から4丁目)。現在、「銀座」の地名は全国に見られるが、この伏見が発祥の地である。

現代に残る伏見城の面影

伏見城の廃城により、天守閣が淀城に転用されたのをはじめ、櫓(やぐら)や城門、石垣などが、各地の城閣や社寺に移転された。伏見城の面影を偲ぶ代表的な建物として、1628年(寛永5年)、江戸城に移築されたと伝えられる伏見櫓(ふしみやぐら)がある。京都伏見にある伏見城の遺構としては、御香宮神社の神門、源空寺の山門などが知られている。

御香宮神社の神門
激動の時代を変わらぬ姿でくぐりぬけてきた、皇居外苑からのこの風景。伏見櫓は、二重橋(正門石橋とその奥にある正門鉄橋)の先に、その美しい姿を見ることができる(皇居外苑管理事務所の許可を得て撮影、2015年6月16日)。

御香宮神社の神門
御香宮神社の神門(国の重要文化財)は、伏見城西大手門の遺構である。

伏見城の石垣などの残石
御香宮神社の境内には、伏見城の石垣などの残石が置かれている。

「桃山」の由来

織田信長、豊臣秀吉が権力の座にあった織豊(しょくほう)時代は、「安土桃山時代」として知られている。その「桃山」のいわれは、伏見城の廃城後、城址の山一帯に桃の木が植えられ、桃の花見の名所となったことにちなむ。伏見の名所を紹介した『伏見鑑』には、<伏見の町の東に有、南北十町余り東西三四町或は五六町の間、数億万株の桃花、山野に充て欄漫たり、異国は知らず凡日本のうちにかくのごとき桃花の多き所又有べからず・・・>と紹介されている。桃の花里として知られたのは100年ほどの間だったが、歴史の重要地として「桃山」の名が広く響いたことから、後世に認識されるようになった。  
1912年(大正元年)、伏見城のあった古城山は明治天皇陵となり、当時、多くの参詣者が御陵を訪れたという。現在、この「伏見桃山陵」最寄りのJR奈良線「桃山」、近鉄京都線「桃山御陵前」、京阪本線「伏見桃山」などの駅名にも、「桃山」の名が冠されている。

伏見鑑
江戸時代の伏見の名所を紹介した『伏見鑑』(ふしみかがみ、月桂冠史料室・蔵)に描かれた桃山の様子。安永年間(1772~1780年)の発行。

(参考文献)

  • 京都平安文化財『伏見城跡(指月城)発掘調査 現地説明会資料』(2015年6月20日)
  • 島根県立古代出雲歴史博物館 『石州銀展』 ハーベスト出版 (2008年5月)
  • 林屋辰三郎 『桃山』 京都桃山ライオンズクラブ (1976年10月15日)
  • 山本真嗣・編 『再版 伏見鑑上下巻』 桃高史学研究部 (1974年4月1日)
  • 山本真嗣 『伏見くれたけの里』 京都経済研究所 (1988年)
  • 山本真嗣 『京・伏見歴史の旅』 (新版) 山川出版社 (2003年)