黒田官兵衛、終焉の地は伏見

伏見城下の黒田長政下屋敷

黒田官兵衛の後継者となる長男・長政の屋敷は、伏見城下町図によると同城の北東部、現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町あたりに位置したとされている。黒田官兵衛が居住したかどうかは検証途上といわれるが、『寛政重修家譜』などの文献によると、官兵衛終焉の地は伏見であり、慶長9年(1604年)3月20日、福岡藩の伏見屋敷で59歳の生涯を閉じている。

伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地
「伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地」として、NPO法人京都歴史地理同考会(理事長・中村武生氏)が石碑を建てた。伏見北掘公園の北側を走る上板橋通を東へ進んだ突き当りに位置する。

武将の町

豊臣秀吉が統治した時代、伏見は政治の中心地として当時の首都となり、徳川時代に至るまで、権力の座をめぐって政争が繰り広げられた。伏見城内には、幕府首脳の五奉行の上屋敷(居住地)、その周囲には側近大名の上屋敷があり、さらに外周にはその他の大名の下屋敷(別邸)が、城を取り巻くように居並び、整然とした美しい街並みを形成していた。その西側の地区では商人や職人などが業を営み、武士たちの御用に預かっていた。この中には酒造業者も含まれ、城下町での酒の需要に応えていた。伏見ではこの頃、酒どころとしての基礎が築かれた。  
関ヶ原の戦いを前にして、徳川家康と石田光成が対立、黒田官兵衛と、その後継者の黒田長政は徳川方に加勢した(1598年=慶長3年、山城伏見騒動)。

伏見城下町図
伏見城下町図(月桂冠大倉記念館・蔵)。豊臣秀吉が伏見に築城した当時の城下町を表した絵図の一つ。内濠に囲まれた赤色の部分は伏見城の本丸などを含む要塞、茶色の部分は武家屋敷、白色の部分は町家となっている。武家屋敷が集まる街区の一つに、「黒田甲斐守」と表示がある。そこが黒田長政の下屋敷。

伏見城下町、武家屋敷跡の街区表示板
伏見城下町、武家屋敷跡の街区表示板。伏見には現在も、「金森出雲」「長岡越中」「羽柴長吉」「永井久太郎」「筒井伊賀」「井伊掃部」「正宗」「福島太夫」「島津」「板倉周防」「松平筑前」「水野左近」「本多上野」「三河」「伊賀」「丹後」など、武将や旧国名などを由来とする地名が残る。縦横の町割りにも城下町時代の面影を偲ぶことができる。

酒どころ伏見

関ヶ原の戦い(1600年、慶長5年)の後、敵対した石田光成に関係した大名の屋敷は焼き払われ、伏見の街は火の消えたようになったという。1601年(慶長6年)に伏見城が再建されるも、1624年(寛永元年)には廃城、政治の中心は大坂城に移ったため、伏見の街の発展は停滞した。  
一方で1635年(寛永12年)、参勤交代の制度が発足、西国の大名はすべて伏見に逗留して行列を整え、江戸へ向かうこととなった。伏見には本陣が出来、船宿も建ち並び、各種運輸業者が業を営んだ。伏見の街は宿場町、港町として往来する人並みで賑わい、活気を取り戻した。酒の需要も旺盛となり、酒造業者が多数操業するようになった。ちょうどこの直後の1637年(寛永14年)、月桂冠(当時の笠置屋)は城下町の外濠に面した南浜界隈で創業した。1657年(明暦3年)には、伏見の造り酒屋は83軒(約15,000石)を数えるようになった。宿場町、港町としての再生により、伏見の酒は更なる発展への歩みを進めていった。

米蒸しと麹づくりもろみ本仕込み
江戸時代の酒造り、左から「米蒸しと麹づくり」「もろみ本仕込み」(江戸期・寛政年間の「日本山海名産図会」をもとにして門脇俊一氏が作成、月桂冠・蔵)。

(参考文献)

  • 栗山一秀 <伏見酒・序説> 『伏見酒(Ⅰ)』 伏見醸友会誌 第9号 (1980年)
  • 諏訪勝則 『黒田官兵衛-「天下を狙った軍師」の実像』 中公新書 (2013年11月22日)
  • 中村武生氏(歴史地理学者)による<伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地>説明板(2014年8月30日、京都市伏見区深草大亀谷敦賀町に、NPO法人京都歴史地理同考会が設置)
  • 日本史研究会・編 『豊臣秀吉と京都―聚楽第・御土居と伏見城』 文理閣 (2001年12月10日)
  • 山本真嗣 『伏見くれたけの里』 京都経済研究所 (1988年)
  • 渡邊大門 『黒田官兵衛 作られた軍師像』 講談社現代新書 (2013年9月18日)