京都盆地の南端に位置する伏見。豊臣秀吉、徳川家康の度重なる伏見城の造営によって、東西4キロ、南北6キロの城下町が形成された。人口は数万とも言われるほどに膨れ上がり、江戸・大坂・堺に次ぐ規模となる大都市へと発展した。城下町の形成と共に、宇治川の堤を付け替えて道路を整備、城を囲むように外濠が街中に巡らされた。伏見の街は、京への玄関口、奈良、大坂とを結ぶ水陸交通の要衝となった。
黒田官兵衛は、秀吉、家康らとの関わりの中で、武将の町である伏見をも活躍の場とした。秀吉に随伴しその才を発揮して重用されたが、一方で家康が権力を握ると見ると、後継者の長政を加勢させるなど先を読み、その後の地歩を固めていった。
京都市上京区の如水町は、黒田官兵衛出家後の称号をもとに名付けられた町名で、「黒田如水邸趾」として屋敷の跡に石碑が建つ。官兵衛は、同じ京都の伏見とも少なからぬ関係があった。
京都市上京区如水町(堀川通一条西入る一筋目を過ぎた南側)の街路にひっそり建つ「黒田如水邸趾」の石碑。