日本に初めてキリスト教を布教したのは、1549年(天文18年)に来日したフランシスコ・ザヴィエルとされている。京の都にも1550年に立ち寄り、都を離れる際には伏見の鳥羽湊(現在の京都市伏見区下鳥羽)から出港したことが記録に残る。その後、キリスト教信仰は徐々に広まり、その牽引者の一人として、安土桃山時代のキリシタン大名・高山右近が知られている。
高山右近は、1552年(天文21年)、摂津国高山(現在の大阪府豊能郡)で生まれ、戦国時代の武将として織田信長や豊臣秀吉に仕えた。高槻城の城主であった一方で、キリスト教への信仰を育み、黒田官兵衛、蒲生氏郷ら近しい大名にも布教した。高山右近が育んだ揺るぎない信仰心は、深く人心へと浸透していった。
しかし為政者にとって、「異教」への信仰は畏怖する存在ともなった。豊臣秀吉による「伴天連追放令」(1587年=天正15年)で、高山右近は加賀の前田家に客将としてお預けの身となった。さらに、徳川幕府によるキリスト教の大禁教令(1614年=慶長19年)で日本からも追われ、迎えられたフィリピンのマニラで、1615年(慶長20年)、生涯を閉じた。
これまで京都伏見は、高山右近のゆかりの地として取り上げられることは少なかった。豊臣秀吉時代から徳川三代将軍までの時代には、伏見は政治の中心であり、いわゆる「首都」として政策上重要な土地と位置付けられており、その城下町には全国の大名が服属の儀礼として屋敷を設けた。その大名の一人として、高山右近の足跡が京都伏見の地に刻まれた様子を、史料から知ることができる。高山右近ゆかりのイエズス会「伏見教会」(1604年~1614年)への小道が、ひっそりと受け継がれてきたことを、敷地を所有する月桂冠が、2015年(平成27年)確認した。
2016年1月、バチカンのローマ法王庁が、高山右近を「福者」に認定したとの朗報がもたらされた。「福者」とは、カトリック教会で「聖人」に次ぐ崇敬の対象であり、高山右近の名がカトリック教会はじめ世界で認識され、その信仰心が称えられることとなった。
(2015年11月12日掲載、2016年7月28日更新)
(主要参考文献)
(高山右近に関する参考図書)
当コーナーに使用した意匠は、カトリック高槻教会(大阪府高槻市野見町2-26)の許可を得て、月桂冠が撮影した画像を含んでいます。