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月桂冠トップ > 知る・楽しむ > 酒の産業を知る-日本酒造史 > 中世の酒 京は日本一の酒どころ、隆盛をきわめた「酒屋の酒」
室町時代の酒屋跡▲室町時代の酒屋跡が京の町中で発掘された。京都駅の1キロ北、市街を南北に貫く烏丸通りの西側、五条通りの1ブロック南に位置する。2150平方メートルの広大な敷地から、酒甕を置いた穴が200基以上みられた。旧尚徳中学校と揚梅幼稚園の跡地(京都市下京区楊梅新町東入る上柳町)で、2007年(平成19年)に開校した京都市立下京中学の建設にともない発掘された

中世の酒
京は日本一の酒どころ、隆盛をきわめた「酒屋の酒」

酒の産業を知る - 日本酒造史

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平安時代に宮中で高められた酒造りの技は、室町時代に「酒屋の酒」で隆盛を極め、そして全国の各都市へと広がり、各地の地酒として日本酒産業発展の礎となっていきます。

「酒屋の酒」が出現

13世紀、それまで「ハレの日」(いわゆる冠婚葬祭のような特別な行事のある日)だけにしか飲めなかった酒が、「ケの日」(行事のない通常の日)にも飲まれるように変っていきました。これは大寺院で僧侶によってつくられる僧坊酒や、町で酒をつくって売る酒屋が出現したからです。
鎌倉幕府は酒造を制限、各家に1壷を残し、それ以外はすべて打ちこわすという「沽酒禁令」(1252年)を布告しました。これによってこわされた壷は鎌倉だけで37,274壷にも達したといいます。
室町時代、京の都では町の酒屋が隆盛をきわめました。幕府が酒屋を財源として重要視し援助したこともあり、造り酒屋が京を中心として発展していきました。多くは「土倉酒屋」(どそうさかや)と呼ばれ、金融業者(土倉)が酒屋を兼業したり、酒造業者が富を蓄えて土倉を兼ねるようになりました。酒屋の名簿を記した史料(1425年)によると、「洛中洛外の酒屋」は342軒を数え、その中には「柳屋」「梅酒屋」など著名な酒屋も含まれています。その当時の大規模な酒屋跡が京都の街中で見つかり、発掘調査結果が2005年(平成17年)に公開されました。

常滑焼陶器▲14世紀前半(室町時代前期)の常滑焼の甕の底面が残る箇所もみられた

京は日本一の酒どころだった。室町時代の酒屋跡、京都で発見

室町時代の大規模な酒屋跡が、京都駅の1キロ北で見つかりました。醸造に使う甕(かめ)を据えつけた穴(直径60センチ、深さ40センチ)が200基以上、南北16メートル、東西14メートルの範囲に整然と並んでいました。そのうち常滑焼の甕の底面が残っている箇所もありました。甕は高さ80センチ、胴周りの直径が80センチもあり、250リットルが入る大きさだったと考えられています。周辺では井戸の跡も19基見つかっています。

財団法人京都市埋蔵文化財研究所が行った発掘調査の現地説明会▲財団法人京都市埋蔵文化財研究所が行った発掘調査の現地説明会(2005年4月23日開催)には、研究者や考古学ファン、酒造関係者など500人にもおよぶ人たちが足を運んだ

この酒屋があったとされるのは、14世紀(1300年代)から15世紀(1400年代)頃。京の街で酒屋が発展し、甕数(造った数量)に対する課税が始まった時期(1371年)とも重なります。 『北野天満宮文書』には、「やまももまち(楊梅町)きたにしのつら(面)さかや(酒屋)かうし(麹)の事・・・」(応永26年10月1日=1419年)や「楊梅室町西南頬之倉」(応永26年10月2日)など、この酒屋を指す文言が見られ、史料からも存在が裏付けられています。

【参考・引用文献】
  • 栗山一秀 「世界の酒―その種類と醸造法、歴史と本質と効用―」 『アルコールと栄養』 光生館 (1992年)
    ※<「酒屋の酒」出現>の項。
  • 財団法人京都市埋蔵文化財研究所 『平安京左京六条三坊五町跡 発掘調査現地説明会資料』 (2005年4月23日)
  • 坂口謹一郎・監修 『日本の酒の歴史』 協和発酵工業株式会社 (1976年)
  • 京都市 『京都の歴史3 近世の胎動』 学藝書林 (1968年)
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