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京都・伏見と徳川家康との深い関係「伏見幕府」ともいえる政治の拠点 ▲宇治川、澱川橋梁越しに望む桃山丘陵。丘陵には往時、伏見城が聳え立ち、地元伏見はもちろん京の町や大坂方面までを眺望できる位置にあった

京都・伏見と徳川家康との深い関係
「伏見幕府」ともいえる政治の拠点

京都・伏見を訪ねる

京都・伏見は、豊臣秀吉が築いた伏見城を中心に発展したとされてきましたが、実は、徳川家康とも深い関係があります。家康は、秀吉亡きあと政権の筆頭となり、伏見城の主となりました。その後、伏見城は徳川の城としての期間が長く、徳川幕府初期の政治や軍事の拠点として欠かせない城でした。

家康の権力拡大に反発する大名たちが西軍として結集し、1600(慶長5)年、関ケ原の戦いが勃発、その前哨戦として西軍により伏見城が攻撃され大きな損害を受けましたが、東軍の家康は関ケ原で西軍を破りました。伏見には、1601(慶長6)年、日本初の銀座が置かれ、全国の大名が武家屋敷を構えるようになり、家康時代の各藩屋敷の名前も現在の町名として多く残っています。

関ケ原の戦い勝利の後、家康は伏見城を再建し1602(慶長7)年ごろ完成、1603(慶長8)年には伏見城で征夷大将軍に任命され、その就任式は伏見城で行われました。このことからも、伏見城が家康にとって重要な場所であり、「伏見幕府」とも言えるほどの重要な拠点となっていたのです。

家康は、拠点を伏見に移した1594(文禄3)年9月から1600(慶長5)年末までの間で2304日中1546日(67%)、翌1601(慶長6)年から伏見を去る1606(慶長11)年までの間には2185日中1240日(57%)と、一年の多くを伏見に滞在して天下統一の基盤を固めました。家康は息子たちをそれぞれ紀伊・尾張・水戸に送りました。徳川御三家はこの息子たちを初代として始まりました。三人の息子たちは皆、伏見で生まれました。

家康が駿府に移った後も、伏見城は将軍家の城として残りました。二代将軍秀忠や三代将軍家光も伏見城で将軍に任命されました。しかし1623(元和9)年に家光が江戸に移った後、伏見城は廃城となりました。廃城とはなったものの、城下町のインフラを生かして、その後の伏見は宿場町、港町としての発展を経て、現在もその町割りが残り、酒の町として営みが続いています。

「銀座」跡 ▲伏見城大手門から続き、街中を東西に貫く大手筋と両替町通との交差点の北西に位置する「銀座」跡。ここから北へ4ブロックにわたり、「銀座」の地名が残る(1丁目から4丁目)。現在、「銀座」の地名は全国に見られるが、この伏見が発祥の地である

御香宮神社の神門(重要文化財) ▲御香宮神社の神門(重要文化財)は、1622(元和8)年、伏見城の西大手門が移築されたものと伝えられている

本殿の正面には徳川家ゆかりの三ツ葉葵の定紋 ▲一時、伏見城内に移されていた御香宮神社は、1605(慶長10)年、徳川家康が現在地に戻し、その際に本殿が造営されている。本殿の正面には徳川家ゆかりの三ツ葉葵の定紋が刻まれている

御香宮神社境内には家康ゆかりの東照宮の末社 ▲御香宮神社境内には家康ゆかりの東照宮の末社も祀られている

【参考・引用文献】
  • 「どうして家康 伏見の印象が薄い?歴彩館職員が論文」 『京都新聞』(2023年5月4日付朝刊)
  • 若林正博「徳川の伏見城」 京都市伏見区役所ホームページ(2022年9月22日)
  • 若林正博「伏見における黎明期の徳川政権―家康はどこにいたのか―」 『京都学・歴彩館紀要』 第六号(2023年3月発行)