酒どころ支える「伏水」
水の豊かさを求めて酒産業が伏見に集積
京都・伏見を訪ねる - 酒造りと水
「伏見」の地名は、「俯見」「臥見」「伏水」などと書かれてきました。『日本書紀』には、「俯見村」、『万葉集』には「巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり 射目人(いめびと)の伏見が田井に雁渡るらし」(万葉集巻九、柿本人麻呂)と、伏見の地名が登場します。『枕草子』では「伏見の里」、新古今和歌集では歌枕に「呉竹(くれたけ)の伏見」が取り上げられています。
「伏水」と呼ばれた伏見
江戸時代になると「伏水」も用いられるようになり、明治と元号が改まる1868年(慶応4年)には「伏水役所」(翌年、伏水京都府出張庁と改称)と公的にも使われていました。水に関わるこの地名は、古くから水が豊かだったことを示すもので、「巨椋池(おぐらいけ)に枕する地形」(『伏見町誌』1929年)や、伏見の港を表す「伏見津(ふしみつ)」(『伏見鑑』1779年)から転じたともいわれます。1879年(明治12年)には、「伏見」の表記に統一されています。
桃山丘陵から見渡す眺めのすばらしさ、つまり俯瞰を意味する「伏見」と、水の豊かさを象徴する「伏水」。恵まれた自然のもと、伏見では現在も20を超える蔵元が酒造組合に加盟し、酒造りに勤しんでいます。
都の位置を変えた水
京都盆地の北に、794年(延暦13年)造営された平安京は、当初は真四角形の都でした。しかし次第に右京(都の西半分)が都の範囲から外れるようになりました。右京では、井戸を掘っても水が出なくなり、当時、人々は水を求めて東や北へ移り住み、都は南北に細長い形に変わりました。平安遷都から800年後の1591年(天正19年)、豊臣秀吉が都を守護するため22.5キロにわたり築いた「お土居」(おどい)と呼ぶ城壁(堀と土塁)の位置を見ると、当時の街は、当初の都の東寄りで縦に細長かったことがわかります。都の東半分は高野川や加茂川が山から運んできた砂や礫が堆積する水の出やすい地形、西半分は水の出ない粘土層であることが地質学的にも裏付けられています。
▲「伏水街道 第三橋」と石柱に記された橋(京都市東山区本町17~18丁目)。東福寺境内の通天橋をくぐって流れ出る三ノ橋川にかかり、往時の面影を残す。同様の石柱が、本町10~11丁目を流れた今熊野川(現在は暗渠)の第一橋(一橋小学校に親柱が残る)から第四橋までの4か所にあった。「伏水街道」は、五条大橋東詰から三筋東を起点に伏見まで続く現在の本町通り。伏見で合流する大和街道を通じ奈良方面へと至る。この通りに沿って「東山区本町」と呼ぶ細長い町を形成している
一方、伏見では砂礫層の地質から豊富な水が湧き出しています。1594年(文禄3年)の伏見城造営による都市としての発展とともに、水の豊かさを背景に酒造業が興隆しはじめました。伏見酒はその後も宿場町、港町の酒として発展し、1657年(明暦3年)には酒造家83軒、造石量1万5千611石と国内有数の酒どころとなりました。1906年(明治39年)、伏見酒の製造量は旧京都市内の酒を上回り、旧市内の酒造業者も続々と伏見へ転出、灘に次ぐ二大酒どころへと発展していきました。町の機能が激しく移り変わる中、今も変わりなく豊かな地下水「伏水」が伏見酒を支え続けているのです。
- 【参考文献】
-
- 京都市の地名』日本歴史地名体系第二七巻、平凡社(1979年)
- 林屋辰三郎編『京都の歴史4・桃山の開花』学藝書林(1969年)
- 伏見酒造組合『伏見酒造組合一二五年史』(2001年)
- 山本真嗣『伏見くれたけの里』京都経済研究所(1988年)
- 吉田金彦「古代地名を歩く85 ふしみ(伏見)」『京都新聞』(1986年6月30日付)