日本ではじめての酒―米の来た道―
縄文時代にさかのぼる、日本における米作の起源
酒の産業を知る - 日本酒造史
世界各地の酒の起源をたどってみると、たいていは果実の酒です。日本でも縄文土器のなかに山ブドウの種が発見されたりして、果物や木の実(クリ、クルミ、シイ、トチ、カヤ、ドングリなど)から造られた酒があったとする説が最近有力になってきました。
一方、日本酒の原料となる米は、どのように日本へ導入されたのでしょうか。日本の稲作についてはこれまで、弥生時代に始まったとされてきました。しかし近年、縄文時代にはすでに稲が栽培されていたとことが明かになりました。米文化のひとつとして発展してきた日本酒の誕生に関わる歴史として、注目すべき知見です。
稲は熱帯性の植物で、もともと日本列島には存在していませんでした。そのことから、日本の稲作は「弥生時代に始まり『水田』で『温帯ジャポニカ』系統の稲を栽培していた」との説が有力でした。それが、ゲノム(遺伝情報)の解析など新たな科学技術の活用により、「縄文時代に『焼畑』で『熱帯ジャポニカ』系統の稲を栽培していた」ということが明かになったのです。
12,000年前、長江中流域がルーツ
稲作は12,000年前、中国・長江中流域を起源として始まりました。湖南省の遺跡からは土器・石器に混じって栽培種の稲モミが出土しており、食料用としては最初の稲作とされています。これをルーツとして7,000年前には中国大陸の沿岸部まで達します。中国・逝江省の河姆渡(かぼと)遺跡の出土米には、熱帯ジャポニカ種が含まれていることが、ゲノム解析でわかりました。中国沿岸地域の漁船は九州沿岸部まで流されることが多く、漁民によって海を越えて稲が日本にもたらされた可能性が高いともいわれています。
日本で焼畑の稲作、始まりは6000年前
日本で稲作(焼畑)が始まったのは、縄文時代前期(6,000年~5,000年前)。朝寝花貝塚(岡山県)から、6,000年前の稲のプラントオパール(ガラス質の結晶)が見つかりました。さらに、佐藤洋一郎氏の研究によって、菜畑遺跡(佐賀県)から発見された縄文晩期の米に「熱帯ジャポニカ」が含まれていることがわかり、日本で縄文時代に行われていた稲作は、焼畑スタイルだったと考えられるようになりました。熱帯ジャポニカは、温帯ジャポニカに比べて背丈が高く、暑い気候を好みます。日本で稲作が始まった6,000年前頃は、気温が3~4度高くなったことから、熱帯ジャポニカが日本列島に到来したと考えられています。
水田稲作も縄文晩期から
水田耕作は、6,000~5,000年前、長江下流域で始まりました。中国・江蘇省の遺跡から見つかった米粒は、5,500年前のものから急に大型化して、現代の米粒と同様の大きさになっている点で、水田で人為的に管理し始めたものと推察されています。この頃、温帯ジャポニカの水田耕作は中国大陸全土におよび、3,000年前には南端まで達しました。
日本の水田耕作は、縄文晩期の2,600年前、九州北部で始まっていました。菜畑遺跡(佐賀県)は日本最古の水田跡であり、縄文土器と共に発掘されました。それまで「水田耕作は弥生時代に渡来人がもたらした」と考えられていましたが、すでに縄文人がほぼ完成された水田を作っていたことになります。
弥生時代に入り、水田耕作は日本全土に300年かけて急拡大しました。垂柳・高樋遺跡(青森県)では、2,000年前(弥生中期)の世界最北の水田跡が発見されました。この遺跡では、温帯ジャポニカとともに熱帯ジャポニカが見つかっており、これらを混ぜて植えることで寒冷地の栽培に合う早生(わせ)の性質を持つ品種になったようです。現在では、北海道遠別町(北緯41度43分)を北限に、沖縄の八重山諸島まで、列島のすみずみで稲が栽培されるようになりました。
- 【参考・引用文献】
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- 栗山一秀 「日本人と酒」 『お酒のはなし―酒はいきもの』 学会出版センター (1994年)
- NHKスペシャル「日本人」プロジェクト・編 『日本人はるかな旅 第4巻 イネ、知らざれる1万年の旅』 NHK出版 (2001年)
- 『DNAが語る遥かなライスロード 「見えてきた稲の道」 日本食文化の源流を探る』(2001年10月21日、大阪府和泉市で開催された日中韓国際フォーラム)