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京都における人間、都市、酒 京の酒文化生成と発展の経緯

京都における人間、都市、酒
京の酒文化生成と発展の経緯

京都・伏見を訪ねる - 酒どころ京都・伏見

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京都という「都市」と、その中で暮らす「人間」とが、どのように「酒」とかかわってきたかを見てみることにしたい。

神祭りと酒

大昔、稲作が日本に伝来し、日本の酒が米からつくられるようになって以来、神々をしずめ先祖の霊をなぐさめる「まつり」のたびに、御霊に供える最も大事なものとして、日本の酒はつくられてきた。さらに、その神々の嘗(ナ)めたと同じ酒を、集まった人々が「嘗会」(ナムリアイ。相嘗(アイナ)めの神事。現在も神社で行われている「直会」(ナオライ)にあたる)することによって、神に近づき、共飲共食の連帯感を生んでいった。
こうしたまつりごとは時代が下ると共に、すべて天皇を中心とする政治の舞台に移り、酒宴が朝廷における重要な行事となっていった。そのため、これに供される酒のすべてをまかなう酒造りの官営工房「造酒司」(ミキノツカサ)が朝廷の中に設けられ、それまでの酒造技術も、この司で特異的に進歩発展していった。当時の宮中儀式や制度を規定した『延喜式』(エンギシキ、905~927年)には、こうした造酒司における醸造法が記録されている。

神祭りと酒

ハレの酒、ケの酒

その後、朝廷の力が衰徴すると共に「造酒司」の制度も維持できなくなり、この司で発達した酒造技術の数々は、社寺や町衆の行う酒造りへと伝播していった。
時代の移り変わりと共に、それまで「ハレの日」(冠婚葬祭のような特別な行事のある日)にしか飲めなかった酒が、都市にあっては「ケの日」(通常の日)でも楽しめるものへと変身し、次第に嗜好品としての性格がクローズアップされていった。
一方、農民に対してはすでに奈良時代から禁酒令もたびたび出されており、地方では依然として酒は自由に飲めるものではなく、ハレの日しか造られなかった。
都市と地方とのこのような格差は、もちろん酒以外の面においても数多くあったが、それらは明治になるまで永く続いた。

酒屋の酒

1252年(建長4年)になると、鎌倉幕府が「沽酒(酒あきない)の禁」を発令している。この時は一軒に一壷を残し、鎌倉中で約3万7千個もの酒壷が打ち割られたという。鎌倉に住む武士や庶民がいかに酒を欲していたか、酒はいかに都市の必需品であったかを裏付ける壷の数である。
足利氏によって再び京都に幕府が開かれ、室町時代が始まると、都では酒屋が隆盛をきわめた。当時、京に住む者は、公家、武家、社寺、庶民のすべてをあわせ、約10万人に及んだとされているが、北野神社の「酒屋名簿」に記録されている各辻ごとの酒屋374軒の多さには驚かされる。
また、この時代になると京の都は、貨幣経済への移行が進み、古くからの東の市、西の市という自由な二大公設市場も次第に活況を呈し、商業都市としての様相を呈するようになった。とくに、銭貨を蓄積した富豪「有徳人」(ウトクニン)や「土倉」(ドソウ)とよばれる金融業者が大きな力をつけていった。さらに、酒屋も酒を造って売るだけでなく、その富によって金融の中核をも占めるようになり、「土倉酒屋」(ドソウサカヤ)とよばれるまでになった。
1371年(建徳2年)、酒屋に対し初めての酒役(酒税)が課され、一壷あたり「壷銭二百文」が徴収された。これ以後も、朝廷や幕府からたびたび臨時の賦課を負わされた酒屋は、幕府財政の有力な基盤となり、都市経済を支えるまでに至った。こうした賦課の見返りとして、貴族や社寺に保護された「座」という組織が生まれ、その庇護によって商権を独占、業域を拡大していった。とくに酒造りのもととなる麹を製造販売する「麹座」には、北野神社が介入、酒造りの人々とその権益を争うことともなった。
その後、信長はこうした座の組織を武力でもって弾圧し打破しようとした。さらに、秀吉の刀狩りや、家康の出した多くのご法度も、旧来の社会や経済の体制を打破し、すべてをその支配下におこうとしたものであった。
さらに徳川幕府が江戸に開かれるや、政治の中心は次第に江戸へ移り、経済もまた大坂に奪われ、京の力は徐々に衰えていった。

室町時代の大規模な酒屋跡▲室町時代の大規模な酒屋跡が京都駅の1キロ北で発見された(2005年公開)。2150平方メートルの広大な敷地から、酒甕を置いた穴が200基以上発掘。京都の市街を南北に貫く烏丸通りの西側、五条通りの1ブロック南に位置する

上方文化と酒

しかし、このように時代とともに、めまぐるしく移り変わる権力構造や社会体制の中にあって、京都の人々は上方文化の中心として「どっこい生きていた」のである。
とくに狩野派の絵画を始めとする諸芸術、室町時代におこった能や、戦国時代に始まった阿国歌舞伎、あるいは茶道、華道および香道なども、次々と京で花開き、栄えていった。
そうした京文化の中、天皇、公卿を中心として発達した有職文化の一つとして、古代の神まつりの「神酒と神饌」(ミキとミケ)が、宮廷料理へと発展していった。この宮廷の賜宴の料理から、寺院の精進料理、武家の本膳料理、町衆の会席料理、さらに茶人の懐石料理などが次々と派生し、それぞれの料理が酒と互いに影響しあいながら、都市という市場での激しい競争と切磋琢磨によって、素材の特徴を存分にひき出す、京独自の洗練された風味と、すぐれた食文化をつくり上げていった。

京の酒文化

都市における民衆というものは、どこであっても、常に時代の流れに敏感に反応し、自分たちの生活様式を変えてゆくものだが、とくに京都はその傾向が著しい。
考古学者の田辺昭三氏によると、数多く出土する京都の埋蔵物の中で、室町時代と思われる庶民の井戸などから、宋時代の焼物の酒器や食器の破片が数多く出てくるのには、びっくりするという。全国的にみれば、庶民の食器はまだほとんどが木製だった時代に、京の庶民生活の質がいかに高かったかをうがかい知ることができる。
また、現在も盛大に行われている祇園祭の起源は、疫病退散を祈願した9世紀にまでさかのぼる。その後、応仁の乱によって一時とだえていたのを再興したのは、町衆の力であった。
その頃、法華宗と一向宗がはげしく対立、世情騒然たるものがあったため、室町幕府は一切の神事を停止させた。そうした中、祇園社の氏子たちは「神事これなくとも、山ホコ渡し度し」と抗議、ついに山鉾巡行を強行したのであった。
元禄時代には、この祭の鉾や山を外国から渡来した豪華なゴブラン織で装飾するようになったが、これも京の町衆の財力によるものであった。これらは京の伝統の国際性を物語るものであり、京都庶民の心意気を示すものでもあろう。

祇園祭

江戸時代以来、京の各町内では寄り合いが町会所で頻繁に開かれ、それが酒宴となって盛り上がり、町衆の連帯感が強まると共に、そこからは独特の文化も生まれていった。ただ、その費用がすべて町負担であったため、幕府もたびたび禁令を出したり、明治になってからも、府がその自粛をうながしたほどであった。
そうした酒宴の肴をまかなうためもあって、京独特の「仕出し屋」という配達料理専門の商売が起こった。また、これとは別に京の家庭料理も「おばん菜」とよばれて大いに発達したが、家庭でも時には仕出し屋から器に盛りつけた肴をとりよせて、楽しむことも多かったという。こうしたきめの細かい、料理の使いわけなどは、都市だからこそ可能だったといえよう。
「洛中洛外図」「東山遊楽図」「鴨川遊楽図」には、応仁の乱後、再建のつち音の中でたくましくよみがえろうとする人々がいきいきと描かれている。酒を酌み交わし、歌い踊る人々の、おおらかで活気あふれる姿には、豪華絢爛たる王朝の雅びの伝統と、時代を先取りする美意識と趣向が汲みとれる。「今をときめく権力者も、明日はわからぬ夢まぼろしの世」であるとした京の人々は、その夢の瞬間々々を精一杯に楽しもうとしたのであろう。
16世紀前半の小謡集「閑吟集」の一節、「面白の花の都や、筆で書くともおよばで、ひがしはぎをん、きよみづ、おちくるたきのおとはのあらしに、地主の桜はちりぢりに、ただ何事もかごとも、ゆめまぼろしや水のあわ、夢幻や南無三宝、云々」、に人々の感慨をよみとることができる。
京という「都市」を、「有機的な生物体」と捉えた人さえいるが、これを築き上げてきた「人間」の感性と心意気がタテ系となり、この街で育ったすぐれた「酒と食」の文化がヨコ糸となって、この都市をさらに新しく発展させてゆくことであろう。

【出典】
  • 栗山一秀 「京都における人間、都市、酒」 『CEL』VOL.27、大阪ガスエネルギー文化研究所 (1994年2月)より
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