酒と文化
文化とは文明とは、日本人の暮らしを潤してきた酒文化
酒の産業を知る - 酒文化論・技術論
調理師学校の経営者として、食と食文化に造詣の深かった辻静雄氏は、フランス料理を研究するとき、現在最高水準のレストランを食べ歩き、テクニックを勉強するだけでは十分といえず、歴史の流れの中での正確な位置を把握しなければあやういものになると述べています(『料理に「究極」なし』文春文庫、)。 酒についても同じことが言えます。酒造りの技術的背景、世界の酒との関わり、酒の周辺をとりまく社会、文化を知ってこそ、酒というものがより理解でき、味わいも深まることでしょう。技師として長年酒造りに携わると共に、酒についての歴史や文化を世界的視野にたって研究し発表してきた栗山一秀による、「酒と文化」の講演を再録しました。
演者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。
出所:酒造りの技術者集団である(社)日本醸友会の70周年記念講演より抜粋
「酒造り技術」の追求、「酒の歴史と文化」へのアプローチ
今回のテーマは非常に大きいものです。このテーマでお話をする適任者といえば、ご存命なら、坂口謹一郎先生を措いて他にはないでしょう。しかしここではあえて私なりに、甚だ未熟ではありますが、このテーマにいどんでみたいと思います。
そもそも私が「酒の歴史」や「酒の文化」に興味を持ち始めたのは一体、いつ頃だろうかと、ふりかえってみることにします。 まず、私がこの業界に入った戦後間もない頃は、いまから思うと、酒つくり技術もまだまだ未熟だったという感じがします。 火落ち、酒が腐敗するということについては、今はもう研究をする人さえほとんどいないぐらい少なくなっていますが、当時は蔵内の貯蔵酒にも、製品にも、ずいぶんと火落ちがありました。また、発酵中のモロミでも、全国的な大腐造という事件もあり、私もあちこちの酒蔵で、しばしば腐造したモロミを実際に経験しました。
ただ、これらは、昔から酒づくりにつきものの異状現象として、江戸時代以来、業界に数多くの経験があり、明治以後、多くの学者による研究も重ねられていました。おかげで、私なども、幾多の先達の助言を得ながら、研究を進め、その対策を確立していくことができました。
しかし、これらと違い、戦後になってはじめて起こった難問も次々と出てきました。
当時、そこここの蔵で、切り返し時に、米粒の表面にひどい粘りがでてくるヌルリ麹(スベリ麹)という異常現象が、忽然として発生しました。 こんなことは、先輩達もこれまで経験したことがないという。これが大きな問題になり始めました。真夜中「ヌルリ麹がでたから、すぐに来てくれないか」と提携先の杜氏さんから電話がかかってきて、その対策に走り回ったこともありました。その原因を知るため、まず麹のつくり方で、何が戦前と変わったのかを調べる必要が出てきたのでした。
次に起こったのは、店頭の一升壜が、火落ちでもないのに、どんよりうす濁りとなり、もやもやとした沈殿ができたりするという異状現象、いわゆる白ボケ問題でした。これも、戦前は樽詰が多かったせいもあって、消費者にはよくわからず、問題にはならなかった現象です。では、この本体は何なのか、その対策は、ということから、私共は緊急課題として研究を始めました。同時に、醸造試験所の秋山さん、大阪局の川崎さん、桜正宗の杉田さん、菊正宗の森さんなどに呼びかけ「白ボケ研究会」なるものを結成、お互い情報を交換しながら精力的に研究を始めたのでした。
当時は、私も常に酒つくりの現場にたっていましたので「酒つくりのこわさ」というものを肌で感じていましたが、昔の酒つくり技術といまの技術を、比較研究せねばならなくなってきました。
とくに、まだ若かった私共が当時、何か言うと「お前らは知らんだろうが、昔はよかった。昔は…」と大先輩から言われ続けたものです。そう言われても、昔の現物がないだけに始末が悪い。それならというので、明治時代までの技術の歴史を辿ってみることにしました。その結果、明治10年以後なら、酒の分析データも、つくりのデータもあり、これらにもとづいて再現してみれば、だいたいのことは知り得るということがわかりました。
しかし、もっと昔、鎌倉時代、日蓮上人が「人の血をしぼれるごとき…」といってほめたたえた古酒というのはどういう酒なのか、それをどのようにして飲んでいたのか、と私の疑問や興味は、さらに大きくふくらんでいきました。
昭和30年頃になると、月桂冠でも、生産数量がだんだんと増えてきて、このままゆくと、これまでの酒蔵をいくら建て増ししても間に合わなくなる。どうしても年間稼働する蔵を建てるべきだという考えになってきました。それに、おそかれ早かれ、杜氏や蔵人がいなくなる徴候がすでにあらわれ始めていました。そこで私共は、あえて業界の先頭を切って、社員による四季醸造という新しいシステムの開発に取り組み始めたのです。
そのためもあって、まず、昔はどうだったかを調べてみました。何のことはない。私ども月桂冠の前身・笠置屋も、創業した江戸時代前期という、いまから360年前は、なんと四季醸造をやっていたらしく、現在、みんなが欲しがる「しぼりたての新酒」も、その頃は年中飲めたらしいということもわかってきました。
とくに、古代より室町時代までは、春夏秋冬、いつでも必要なたびに、酒がつくられ、飲まれてきたということ、つまり、四季醸造こそが日本酒本来の姿であることを知りました。このことは、四季醸造のパイオニアを目指して研究し、努力していた私共を、何よりも力づけてくれる史実で、社員による新しい醸造システムの開発と実現に対しても大いに拍車がかかりました。
そうこうしているうちに、いつの間にか私は「酒づくりの歴史」から「酒文化」のほうへ、興味を持つようになり、その方の研究に、次第に力を入れ始めました。
最近では、「日本の酒は文化そのものである」とか「日本の心を形として具現したもの、それが日本の酒である」と考えるまでになっています。
▲月桂冠、創業当時からの酒銘「玉の泉」の印弧原図
「酒つくりの歴史と飲酒文化」についての共同研究
昭和58年、加藤百一先生、鎌谷先生、野白先生、秋山先生なんかが中心になって『日本酒造史研究会(現・日本酒造史学会)』というのができました。関西では関学の柚木先生、菊正宗の森さん、白鹿の高岡さん、それに私の4人が、推進役となり、学会の発展につとめています。この学会では「御酒之日記」、「童蒙酒造記」、「伊丹万願寺屋伝」といった古文書類を復刻し、解説したりする学会誌『酒史研究』を、これまでに14冊も刊行しています。技術の歴史に興味のある方は、是非入会して頂いて、このすばらしい「日本の酒づくり文化」の理解と保存にお力添え下さい。
昭和61年、今度は醸造試験所の所長さんが世話役となって「飲酒文化を考える会」というのが発足しました。「こういう時には栗さんを呼ぼうよ」とういことで、私も、最初からこの会に参加させてもらい、随分と勉強させて頂きました。 「飲酒文化」というので、酒にかかわる神事、社交、贈答など民俗学的な文化から、酒と料理、酒と芸能、さらに将来の情報社会では酒はどうなるだろうかとか、女性、若年層むきの酒はどうなのかとか、いろんなテーマの調査研究が取り上げられました。シリーズ報告集『飲酒文化』8冊が刊行され、ごく最近、これが再編集されて『酒の文化』(社・アルコール健康医学協会)4冊にまとめられました。これは、我々が「酒文化」というものを概観するのに役に立つはずです。ご一読をおすすめします。 さらに、こうしている間に、民俗学の先生たちとも、しばしば付き合うようになりました。やがて国立民族学博物館(以下、民博)の現館長・石毛直道先生をリーダーとする、アジアを中心にした世界の『酒と飲酒の文化』を研究するグループができ、その共同研究員に私も加えてもらうことになりました。民博の吉田集而先生、民俗学の神崎宣武先生、ワインの浅井昭吾さん、朝鮮の酒のチョン・デソン(鄭 大聲)さん、中国の酒にくわしい元・宝の花井四郎さんといった方々と、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を3年間もつづけました。この時の研究成果は『論集・酒と飲酒の文化』(平凡社)として、平成10年中には刊行される予定です。この1冊で世界的な酒文化の展望ができるのではないかと思います。機会があれば読んでみて下さい。
このようにいろんなグループに属しての研究や活動と並行して、私自身、数々の紙面をかり「酒と文化」についてのエッセイを書き、数々の講演も行って、側面から日本酒のPRに力を入れてきました。 それらを最後のページの「文献集」にあらためてリストアップしてみました。それと同時に「酒と文化」というテーマに関連した、多くの方々の著作も書き出してみましたが、このテーマについては随分といろいろな切り口や見方があり、とてもここには書ききれないぐらいだということをあらためて知らされました。いまさらながら驚いている次第です。あとで、この「文献集」が何か皆様のお役にたてれば幸いです。
「文化の酒」「文明としての酒」から「酒の本質」を考える
近年、あちこちでよく引用されるのが、坂口謹一郎先生の名著『日本の酒』に載っている次のような言葉です。
「古い文明は必ずうるわしい酒を持つ。すぐれた文化のみが、人間の感覚を洗練し、美化し、豊富にすることができるからである。それゆえ、すぐれた酒を持つ国民は進んだ文化の持ち主であるといっていい」 この文は、私もこれまで何べんも読んだり、引用したりしていたのですが、最近、ここでいわれている「文化」と「文明」はどうちがうのか、どういう関係にあるのか、ということが気になり出しました。民博の吉田集而さんは、その論のなかで「文化の酒」が「文明の酒」へと次第に変わっていくことに言及されています。今回、私も「文化の酒」と「文明としての酒」の対比に重点をおき、その観点から「酒の本質」について少し考えてみたいと思います。
地球が46億年前に生まれ、猿人が500万年前に出現し、日本列島に縄文人が現れたのが1万2000年前だといわれています。そういう人類の歴史の中で、いつごろから酒ができたのか。1万年前だとか5000年前だとか、いろいろいわれていますが、民博の初代館長で、今は民博協会・会長の梅棹忠夫先生は「近代になって、人類はようやく、文明としての酒と上手に付き合い始めた」といわれています。
文化というものは、一つの文化だけでは大きな発展はなく、多様な文化の中にあることが必要だともいわれます。たとえば少なくとも半世紀前までは、日本にはビールはあったけれども、ワインはほとんどなかったし、ウィスキーも微々たるものだった。それがいま我々日本酒業界は、世界でもめずらしいぐらい多様な酒文化の中にいて、日夜、ビール、ワイン、ウィスキーなどときびしい競争をしている。しかし、こういう多様な文化のぶつかりあいの中から、かえって創造的な新しい「酒文化」が必ず生まれてくるであろうと私は思っています。
では次に、「文明としての酒」というのは、一体どの時代を起点と考えるべきでしょうか。人類には、酒が飲めなかった長い時代があった。今でさえ一滴の酒さえ飲めない地域が現存する。その地域を「純情地帯」だという人もいる。たとえば、オセアニアには、もともと酒はなかった。それが、現代の交通・情報の発達によって、酒がダーッと怒濤のように入っていった。このため、いろいろな社会的問題も起こっている。世界的にみても、イヌイットの地域などのように、長く続いていた酒の飲めない純情地帯はだんだん少なくなってきている。
次に、こうしたことをふまえて、「酒の本質」というようなものを少し考えてみることにしましょう。
吉田集而さんによれば、酒の起源は幻覚剤であり、古代のシャーマニズム文化と共に始まったのではなかろうかという。今でも南米では、キノコ類をかむチューイングをやっては、トランス状態になっている。その後、「口かみ酒」が生まれ、次第に酒というものへ移行し、それが儀式の酒として残っているのだという。また、こうした発展の背景があるため、その後、トウモロコシを麦芽のように発芽させ、酒をつくるようになり「かむ」必要がなくなっても、いまだに祭りや儀式のときは必ず「かむ」ことが行なわれているという。
このように、それぞれの地域や民族の伝統行事の中には、原始的な形がいちばんよく残っている。「酒の文化」を知るには、その地域の祭りとか宗教的行事などをまず調べることが必要だといわれるのも、このためだと思われます。
また、酒を飲んだ結果の陶然とした酔いごごちは、神がかりとなった巫女(ミコ)が神のおつげをするという古代信仰・シャーマニズムの中で、神がかりとなるための必要要件だった筈だが、日本ではいつの間にか、その心地よさだけがクローズアップされ、神がかりになることはどっかへいってしまったようだ。これは、こうした原始的な酒のなかでも、日本の酒はひときわうまかった。この酒が「うまい」ということや、「酔いごごちのよさ」などが、その後の日本の酒造り技術や、文明としての酒の発達を方向づけ、現在の酒が形成されたと思われます。
大昔、ギリシャや前期ローマでは、ワインは明らかに水の代わりであり、渇きをいやすものでした。そのため、海水で割ったり、オリーブオイルを入れたり、アーモンドや蜂蜜やメリケン粉まで加えたりしたのでしょう。 一方、地域によっては、酒は常に食べ物でした。現在でも、食べ物としての酒が世界中にあり、箸で食べる酒まである。石毛直道さんの話では、遊牧民の中には、夏季は馬乳酒(クミス)を、男子は1日に10リッターも飲み、ほとんど他の物は摂らない種族もいるという。
また、浅井昭吾さんの話によると、かつて、南米アルゼンチンに実習にいったとき、毎日重労働をやらされ、晩になると、半焼きの肉を食わされた。臭くて臭くてたまらない。一緒に出されるワインも、これまた、我々が日頃飲むような洗練されたワインとは全然モノが違う。蒸れ香がプンプン、味といったら、非常に重たくて、これがワインか、と思うぐらい粗野なワイン。それをガブガブ飲んで、生に近い肉をのどの奧へ流し込む。ゆっくり味わうというようなしろものではない。こうした焼き肉とワインとが対になって、その土地に厳然と存在している。さすがの浅井さんも全くお手上げだったという。しかも、月日がたち、これになれてしまうと、それらを、平気で飲み、食らうようになった自分に気がついたという。これが「嗜好の文化」というものの本質なのかもしれません。
このように、地域によって、いろんな形の酒が土俗化し、あるものは文明となって伝播していく。その昔、ワインはメソポタミアからエジプトを経て、ギリシャ、ローマへと伝えられ、その年月をかけた伝播の過程で、その品質は次第に洗練され、技術の面でも大きく進歩し、全ヨーロッパにワインの文明圏をつくっていった。
西欧は、今も麦とモヤシの酒の文明圏の中にある。我々は、弥生時代以来、中国を中心とした米と麹の酒の文明圏の中にあり、しかも、日本独自の酒文化をつくりあげていったことを、あらためて考えてみる必要がありそうです。
「文化」と「文明」はどうちがうのか
「文化」とか「文明」というのは、きわめて曖昧な概念で、一般に明確な定義は難しいといわれています。しかし、これをはっきりさせない限り、「酒の文化」や「文明としての酒」を語りつづけることはできません。
では「文化」というものは、一体何なのか。一つの地域で集団で習得され、そこで継続されてきた固有の生活習慣です。それは人々の考え方や、行動パターン、儀礼、嗜好でもあります。同じ日本でも、鹿児島と北海道、関西と東京というように離れた地域に住む人たちの、互いに違った習慣や、クセのようなものが、一つの個性を形成している。こうした地域の人々が共有するもの、それが「文化」だといえましょう。 日本はいろんな「文化」が、朝鮮半島、中国、南方から波状的に流入してきた。それらを年月をかけ、たくみに取り入れ、もとからあった「日本の文化」は、こういうさまざまに違う「文化」と交流することによって、そのたびに大きな刺激を受け、「日本独自の文化」というものが生まれていったといえます。
国立歴史民俗博物館の佐原 眞館長によると「日本人は昔から「外来の文化」を選択し、見きわめる力があった。もともと、縄文人は高いレベルの知識をもっていた。それだからこそ、弥生人の「鉄の文化」や「水田稲作文化」が流入しても、非常にたくみに、しかも驚くほど早く、吸収し、日本列島全土に伝播させていった」という。
こうして日本という地域に定着した「土俗的文化」といえば、古代からのしきたりや社交、「行い」とよぶ儀礼、「祭り」など集団で行う行事が主なもので、もしも、私共がこうした自分の文化を忘れてしまったら、すばらしい文明も滅びるだろうといわれています。
では、「文明」とは何か。これは一地域に限らない普遍的な原理だといえます。民俗学でいうと、装置、システムであり、酒に関していえば、盛り場、居酒屋、料理屋というものも一つの「文明」です。さらに、人がつくった制度や法的規則なども「文明」だといえます。 よく知られているアメリカの禁酒制度というものは、長続きはせず、つぶれました。日本の鎌倉幕府も何べんも沽酒禁令を出している。ということは、この禁酒令も結局は守られなかったということです。それにもかかわらず、現在、イスラムだけは確実に禁酒が行われている。それを、梅棹先生は「将来、イスラム世界も必ず酒を飲む新しい文明社会に吸収されるだろう。しかも、それはインド、トルコ、アラブの順だ」と断定されている点も注目されます。
また、「文明は記録されたもの」ともいわれる。昔から中国人は「自分たちが文明であって、周囲はみな夷狄(いてき)であり、野蛮だ」と考えてきました。「文明と野蛮との違いは何か、記録があるか、ないかだ」というのです。確かに大昔のわが「やまとの国」の倭人たちは字をもたず、記録もなかった。おかげで我々は7世紀以前のことは「魏志倭人伝」のような他国の記録に頼らざるを得ない。
また我々は、食文化としては中国の「箸文明圏」の中にいる。しかも、日本は朝鮮半島から箸とスプーンという食文化を受け入れておきながら、平安時代になると、いつの間にかスプーンのほうは使わないようになった。朝鮮半島では、いまだに箸とスプーンとが対になって、飯茶碗も汁茶碗も絶対に持ち上げないというしきたりがある。持ち上げるのは野蛮だという。これに対し、我々日本人は、いち早くお茶碗は持ち上げて食べるものという慣習を生み出した。酒に関しても、日本人が外来文化をどのように受容し、自らの文明としてどのように発達させてきたかは、こうした食に関するしきたりの変遷からも読みとれそうです。
作家・司馬遼太郎さんは「日本女性が座敷に入るとき、両膝をつき、両手でふすまをあける姿こそ、典型的な日本の文化である」といい「赤で止まり、青で進む交通信号は、世界に共通する普遍的な文明だ」といっています。さらに、「遊牧さえも、一つの文明だ」と喝破されているからおもしろい。
そういえば、方言というものも、特定の地域で永年にわたって土俗化した文化だが、標準語というのは、平準化し、統合された一つの文明だといえます。しかし、近年、テレビなど情報や、交通の急速な発達によって、各地の方言も次第に消え、標準語に取って代わられるように見えます。こうした方言や、あるいは食生活の地域差などを考えることは、酒における文化と文明を理解するのに役にたつと思われます。
京都と東京の対比、文化と文明の考察
ここで、文化と文明をさらに具体的にイメージして頂くため、京都と東京という二つの都市の本質を対比して考えてみようと思います。
昔から京都というところは、多くの矛盾をはらんだ、きわめて非合理な都市といえます。しかし、その非合理性がむしろ人々に安心感を与えている場合も多いようです。もともと京都には、王城だという誇りがあり、いろんなハレの行事やお祭りも他の都市よりずいぶんと多い。その底辺には1200年つづいた「上方(かみがた)文化」があります。しかも、町衆の生活文化や、美意識のレベルは高く、その洒脱な遊び心に裏打ちされた、きわめて洗練された文化が息づいています。
ただ、そうしたものだけでは町は生きていけない。やはり経済の活性化がないとダメです。その経済効果をあげる方策の一つとしてつくられたのが、今回の新京都駅ビルの建設だといえます。「これでは京都の伝統と景観が壊れる」という激しい反対論がある一方で、若い人々には結構人気があり、予想以上の集客効果をあげています。こうした伝統的文化と未来をめざす文明とのせめぎ合いの中で、京都という都市は、いまや「平安京」から「平成京」の創設をめざし、京の再生へと動き始めているのです。
一方の東京はどうか。人口百万といわれた江戸は、270年にわたって確固たる伝統を築いた街ですが、そこには全国300に及ぶ大小各藩の大名につかえる単身赴任のサムライが多く、結果として、男性が65%以上というきわめて特殊な街になっていました。その上、「上方の酒」だけではなく上方の文化のすべてを受け入れ、江戸では京や大坂の「下り(くだり)文化」が栄えた。それが、明治維新になって「舶来文化」にすり替わる。たとえば、明治初年、延べ500人を越す御雇外国人が、東大の教師として赴任してくる。司馬さんに言わせると「明治政府が意図した通り、それ以後、東京は近代日本の文明の配電盤になった」というのです。
いまや1200万人というきわめて大きな人口をもち、毎日がハレの日のようになっているのが現在の東京です。最近、大阪の吉本興業がなぐり込みをかけ、話題になっているのも、東京がいまも地方に対する文明の配電盤であり、きわめて合理的な文明都市であることの証明だといえましょう。 ここで「京都」を「日本酒」に、「東京」を「ビール」に置きかえて考えてみるのもおもしろいと思いますが、いかがでしょうか。
歴史をつくり、四季の暮らしを潤してきた酒文化
世界の酒文化と日本の酒文化を具体的に見てみることにします。
チベット、ブータン、ネパールなどには、ヒエでつくった粒酒が現存します。現地では、いまも箸で食べているようです。 この粒酒はなかなか食べにくいので、孟宗竹を輪切りにした筒に粒酒を入れ、上から湯を注ぎ、浸出した酒を細い竹をストローにして飲む方法が、いまもみられます。これは、我々のお茶の飲み方と原理は同じで、照葉樹林文化の一つだといわれています。
また、ウガンダでも、北ベトナムでも、植物の茎でストローをつくって、一つの壺に入った酒を、みんなで一緒に飲むのが、昔からの習慣として一つの文化になっています。
日本では、神に捧げた酒を一つの大杯に入れ、みんなで回し飲むという直会(なおらい)が日本古来の文化として定着していきました。 神人共食のナムリアイ(嘗会)の神事が、日本の宴会のルーツです。これによって、サカナ(酒菜)というものが生まれ、一献、二献と酒の杯が変わる度に、するめ、あわび、汁物、などと供される酒菜も変わり、その組合せを「献立」というようになりました。これが後、宮廷料理へと発展、さらに後世、寺院の精進料理、武士社会の本膳料理、茶人達の懐石料理などが生まれていったのです。
神社の直会の膳には、神酒(みき)とそのさかなの神饌(みけ)が並びます。直会の膳のような古代の神に捧げる供物には、サジと箸がついていましたが、そのうち、直会の席では、箸があるだけで、サジがなくなっていくのです。
また神酒を呑むカワラケはいっぺん使ったら、二度と使わないのがしきたりです。たとえば、伏見の稲荷大社の大山祭では、神事が終わると、飲み干したカワラケを谷に向かって投げすてるカワラケ投げが行われる。平成天皇即位の大嘗祭の時も、古式ゆかしい祭殿が宮城の一郭に新たに建てられたましが、式典が終わると、惜しげもなく、取り壊されてしまった。ここに日本人のけがれの概念や、常に新しいものを尊ぶという心がうかがえるます。この考え方が酒の質や、酒文化の方向をもきめてきたと思われます。
東大寺の結解(けっけ)料理では、たくさんある東大寺の荘園の決算が済んで、ヤレヤレとお坊さんたちも「棒のもの」と称する般若湯(酒)を飲むのがしきたりとなっています。
武家の本膳料理の一例として、信長が家康を供応した時の料理には、近江の名物フナズシ、瀬戸内海の名物タコなども並んでいますが、その時の最大のご馳走は、あの信長がみずから銚子を持って家康らに酌をして回ったことだということです。
▲さげ重(No.1)。江戸期の野立弁当で、「野弁当」「花見弁当」とも呼ばれる手提げの重箱。徳利2本と酒盃、枝垂れ桜を描いた重箱などをセットしている。花見など野遊びの際に携帯するもので、四季折々の旬の料理と一献の酒を組み合わせる仕組みになっている(縦12cm、横21cm、高さ21.5cm)
現在も日本人が桜の下にもうせんを敷いて、酒宴を開く情景は、外国人にはいちばん奇異な感じがするらしい。しかし、これにはちゃんとした由来がある。桜の「さ」は田の神様、「くら」は神様のよりしろ。春になって、桜の木に宿った田の神様に、今年の豊作を願って、村じゅうの人々がその花の下で、神様と一緒になって酒を酌み交わしたのが、花見のルーツだといわれています。
元禄時代になると、有名な落語の「長屋の花見」のような貧しい人々の遊びがあるかと思えば、だんだんぜいたくになり、みごとな「さげ重」(No.1)に銚子を入れて野山へと出かけたりする、きらびやかな文化も、酒とともに生まれたのです。さらに歌や踊りなど、いろいろな芸能も、こうした酒宴のさかなの一つとして生まれていったという歴史をもっています。
▲月桂冠大倉記念館(No.2)
▲月桂冠大倉記念館(No.3)
私共は、こうした酒文化を、多くの人々に親しんでもらうため、創業の地の酒蔵を記念館とし、十数年前より、一般に公開しています。ただ酒造道具を並べただけでは、どうやって使ったのかということがなかなかわかりにくい(No.2、3)。1997年、創業360年を記念し、開館当初から意図していた「動く博物館」にするため、古い酒蔵の一部を区切って、冷房し、四季醸造が行える部屋「月桂冠酒香房」をつくりました(No.4、5)。ここでは、できるだけ昔の道具を使って醸造することとし、創業した当時と同じ、年間300石ぐらいつくることにしています。とくに、いつでもモロミの発酵が見られるようにすると共に、年中、しぼりたての生酒も味わえるようにしました。今後もこうしたすばらしい「酒つくり文化」を肌で感じてもらえるよう努めたいと思っています。
▲月桂冠大倉記念館(No.4)
▲月桂冠大倉記念館(No.5)
さて、画家・高山辰雄さんもいわれているように「いまや、文化も文明も追い込まれているような気がする」時代です。今回、私がお話したかったのは、酒の文化がその時代時代の人々の暮らしをいかに潤してきたかということ、とくに、日本では、酒という文化が、文明として発達していく過程の中で、四季折々の文化としてどのように再生されていったかを見ると共に、これからそれらをどのように伝えていくべきかを、じっくり考えてゆこうということでした。
こうした「酒と文化」について、皆様方のご理解を少しでも深めていただくことが出来たとすれば、誠に幸いです。
「酒と文化」参考文献抄
●「酒造り技術」の追求、「酒の歴史と文化」へのアプローチ
1 | 栗山一秀 | 「酒とその容器」(No.1~No.10)食品包装 | 1966~1967 |
---|---|---|---|
2 | 栗山一秀 | 「日本酒のはなし」(No.1~No.56) たる (No.7~No.62) | 1981~1987 |
3 | 栗山一秀 | 「変わる日本酒」(No.1~No.15)朝日新聞 (4/9~5/8) | 1991 |
4 | 栗山一秀 | 「四季の酒」(春、夏、秋、冬)CEL(Vol.27~Vol.35) | 1994~1995 |
5 | 栗山一秀 | 「日本酒のこころとかたち」(No.1~No.12) 酒販ニュース (9/21~8/21) | 1995~1997 |
●「酒つくりの歴史と飲酒文化」についての共同研究
6 | 飲酒文化を考える会 | 『酒の文化』(Vol.1~Vol.8)アルコール健康医学協会 | 1987~1995 |
---|---|---|---|
7 | 飲酒文化を考える会 | 第1集『日本の酒の文化』 | 1996 |
『酒の文化』アルコール健康医学協会 | |||
8 | 飲酒文化を考える会 | 第2集『世界の酒の履歴書』 | 1997 |
『酒の文化』アルコール健康医学協会 | |||
9 | 飲酒文化を考える会 | 第3集『酒の社会史』 | 1997 |
『酒の文化』アルコール健康医学協会 | |||
10 | 飲酒文化を考える会 | 第4集『酒と現代社会』 | 1997 |
『酒の文化』アルコール健康医学協会 | |||
11 | 石毛直道(編) | 『論集・酒と飲酒の文化』 平凡社 | (1998刊行予定) |
12 | 斎藤茂太・佐藤陽子・野白喜久雄・栗山一秀・濱本英輔 | 『酒を語る~酌めど尽きぬ酒談義~』 大蔵財務協会 | 1994 |
13 | 日本農芸化学会・塚越規弘 栗山一秀、井上喬(編) | 『お酒のはなし~酒はいきもの~』 学会出版センター | 1994 |
14 | 日本酒造史学会 | 『酒史研究』(1号~14号) | 1966~1997 |
●「酒造り技術」の追求、「酒の歴史と文化」へのアプローチ
15 | 酒文化研究所 | 『酒文化』(1号~5号) | 1991~1997 |
---|---|---|---|
16 | 坂口謹一郎 | 『世界の酒』 岩波新書 | 1957 |
17 | 坂口謹一郎 | 『日本の酒』 岩波新書 | 1964 |
18 | 坂口謹一郎 | 『古酒新酒』 講談社文庫 | 1987 |
19 | 坂口謹一郎 | 『愛飲楽酔』 TBSブリタニカ | 1986 |
20 | 坂口謹一郎 | 『坂口謹一郎酒学集』(Vol.1~Vol.5) 岩波書店 | 1997~1998 |
21 | 加藤百一 | 『日本の酒造りの歩み』 協和醗酵工業 | 1976 |
22 | 加藤百一 | 『日本の酒5000年』 技報堂出版 | 1987 |
23 | 加藤百一 | 『酒は諸白』 平凡社 | 1989 |
24 | 秋山裕一 | 『日本酒』 岩波新書 | 1994 |
25 | 吉澤 淑 | 『酒の文化誌』 丸善 | 1991 |
26 | 小泉武夫 | 『日本酒ルネッサンス』 中公新書 | 1992 |
27 | 小泉武夫 | 『発酵』 中公新書 | 1989 |
28 | 吉田 元 | 『日本の食と酒』 人文書院 | 1991 |
29 | 和歌森太郎 | 『酒が語る日本史』 河出書房新書 | 1971 |
30 | 神崎宣武 | 『酒の日本文化』 角川書店 | 1991 |
31 | 麻井宇介 | 『酔いのうつろい』 日本経済評論社 | 1988 |
32 | 高田公理 | 『酒場の社会学』 PHP研究所 | 1983 |
33 | 神崎宣武 | 『盛り場のフォークロア』 河出書房新社 | 1987 |
34 | 神崎宣武 | 『盛り場の民俗史』 岩波新書 | 1933 |
35 | 加藤百一 | 「酒と料理」『別冊太陽』 平凡社 | 1976 |
36 | 伊藤幹治 | 『宴と日本文化』 中央公論社 | 1984 |
37 | サントリー不易流行研究所 | 『宴会とパーティ』 都市出版 | 1995 |
38 | TAKARA酒生活文化研究所 | 『酒宴のかたち』 紀伊国屋書店 | 1997 |
39 | 吉田集而・山本紀夫(編) | 『酒づくりの民族誌』 八坂書房 | 1995 |
40 | 石毛直道(編) | 『論集・東アジアの食文化』 平凡社 | 1985 |
41 | 吉田集而 | 『東方アジアの酒の起源』 ドメス出版 | 1993 |
42 | 花井四郎 | 『黄土に生まれた酒』 東方書店 | 1992 |
43 | 篠田 統 | 『米の文化史』 社会思想社 | 1968 |
44 | 篠田 統 | 『中国食物史の研究』 八坂書店 | 1978 |
45 | 鄭 大聲 | 『朝鮮の酒』 築地書館 | 1987 |
46 | 鄭 大聲 | 『食文化の中の日本と朝鮮』 講談社 | 1992 |
47 | 渡辺忠世・佐々木高明 | 『稲のアジア史』 小学館 | 1987 |
48 | 佐藤洋一郎 | 『稲のきた道』 裳華房 | 1992 |
49 | 坂本寧男 | 『雑穀のきた道』 日本放送出版協会 | 1988 |
50 | 麻井宇介 | 『比較ワイン文化考』 中公新書 | 1981 |
51 | 麻井宇介 | 『日本のワイン・誕生と揺籃時代』 日本経済評論社 | 1992 |
52 | 麻井宇介 | 『ブドウ畑と食卓のあいだ』 中公文庫 | 1995 |
53 | 古賀 守 | 『ワインの世界史』 中公新書 | 1980 |
54 | 山本 博 | 『わいわいワイン』 柴田書房 | 1995 |
55 | 湯目英郎 | 『ワインの話』 新潮選書 | 1984 |
56 | 原田恒雄 | 『金のジョッキに銀の泡』 たる出版 | 1990 |
57 | 濱口和夫 | 『ビールうんちく読本』 PHP文庫 | 1992 |