伏見はどのようにして
水辺に直面する地となったのか
京都・伏見を訪ねる -日本で唯一の川の港、伏見港
国土交通省「みなとオアシス」に登録
「日本唯一の川の港」とされる伏見港(京都市伏見区)が、国土交通省の「みなとオアシス」に登録されました(2021年4月30日)。港をテーマにした街づくりが、新たな地域振興につながるものとして期待されています。安土桃山時代には、伏見城の城下町に主要な街道を走らせたり、水路も城下を通るように付け替えたりされました。そのインフラを生かして江戸時代には港町・宿場町として発展、京の町への玄関口として、大坂とを結ぶ舟運の一大基地となり、旅人が行き交い賑わいを見せたのでした。今では、伏見城の外濠だった濠川・宇治川派流に観光船の十石舟や三十石船が就航し、運河に沿って建ち並ぶ酒蔵や数々の史跡など、歴史的な風情を楽しめる一帯となっています。
▲江戸時代の伏見の名所を紹介した『伏見鑑』(ふしみかがみ、月桂冠史料室・蔵)に描かれた京都・伏見「京橋」界隈の様子。安永年間(1772~1780年)の発行
伏見港町前史-もともと海だった京都盆地-
1億5千万年前の日本列島は、多くが海底にありました。その後の土地の隆起によって、約1万年前には、現在の日本列島の形ができつつありました。もともと京都盆地も、大阪湾から続く海の底でした。当時の京都南部を含む水域は「旧山城湖」と称され、この湖を取り囲む山々から、川の流れによって運ばれた土砂が堆積し続け、それが陸地になることで、現在の京都盆地が形成されていきました。
京都盆地の南端が現在の伏見の場所にあたり、すぐ南の低地は巨椋池(おぐらいけ)として、昭和初期に干拓されるまで湖の名残をとどめていました。このようにして、伏見は水辺に直面する地となったのです。
伏見の町の南側にかつて存在した巨椋池は、広さ約800ヘクタール、周囲16キロにも及ぶ広域に水を湛えていました。かつては、鴨川や桂川、宇治川、木津川などの河川が流れ込む水嚢として、貯えられた水流が淀川に収斂されて流出、大阪湾へと至らしめていました。中書島や槙島、向島などの島にまつわる地名がみられるとおり、巨椋池には、多数の島々が浮かんでいました。
京都盆地の南端に位置する伏見の小高い丘から眺める巨椋池は絶景であり、平安貴族の橘俊綱(藤原道長の孫、頼通の子)が豪壮な山荘を建て、池に浮かぶ島々や水面に映る月を愛でながらの宴を、たびたび開いたと言われています。
その後、16世紀末~17世紀初頭には、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人たちが伏見に本拠を置き、当時の「首都」として町が形成され、産業や商業が集積、水運をベースにした交通の要衝として発展していくことになるのです。
- 【参考・引用文献】
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- 『京都市立伏見南浜小学校創立130年記念 郷土史』京都市立伏見南浜小学校(2002年11月23日)
- 三木善則『伏見こぼれ話』復刻版、京都伏見ロータリークラブ(2018年4月20日)
- 山本真嗣『伏見 くれたけの里』京都経済研究所(1988年5月)
京都のイラストレーター、ながた・みどり氏がデザインした「伏見港」の飾り文字。港町伏見を象徴する川、十石舟、酒蔵、三栖閘門などで文字が形作られている