乾杯の文化
酒杯のやりとりを通して育まれてきた独自のならわし
酒の文化を知る - 神事と酒宴
近年、日本酒による乾杯の推進を通して、日本文化・伝統の持つ素晴らしさを見直し促進しようとする動きが見られます。
京都市では、「清酒の普及の促進に関する条例」が施行されました(京都市条例第32号 、2013年1月15日)。京都市、日本酒を生産する事業者、市民が協力して、<伝統産業である清酒による乾杯の習慣を広めることにより,清酒の普及を通した日本文化への理解の促進に寄与する>ことを目的としています。「乾杯条例」とも称され、乾杯の機会に日本酒を用いることが奨励されています。古くから酒にまつわる産業が集積し、酒どころとしての一面を持つ京都で、日本酒で乾杯することを象徴として、日本文化と伝統産業の振興を呼び掛けています。 「乾杯条例」は、全国の地方公共団体の中でも京都市が初めて施行したものです。京都市の条例を参考に、その後、いくつかの都市で同様の条例化の動きが見られます。
日本酒造組合中央会が推進役となって、2004年10月1日に設立された「日本酒で乾杯推進会議」は、日本酒にゆかりの深い人たち100人が委員として参加し、日本文化や伝統が持つすばらしさを見つめ直し、その象徴として日本酒での乾杯の普及に取り組んでいます。
日本における乾杯のはじまり
「乾杯」は意外に新しいしきたりであり、一般に普及していくのは明治・大正期頃からであることが、「文明開化と乾杯」(山本志乃)で考察されています。
米国へ渡航した幕府役人による江戸時代末期の文献には、立ち上がって杯と杯とを軽く合わせて飲む乾杯のしきたりを見聞したことが記されています。ペルリ提督の『日本遠征記』でも、軍艦で行われた宴席で、健康を祈るといった祝意を込めて乾杯していた様子が描かれています。幕府役人らが、これらを垣間見てその所作を真似たことが日本での乾杯の先駆けであると推察されています。それが明治期に入り、西洋の文化が取り入れられ、ビールをはじめとして洋酒も次第に嗜まれるようになる中で、乾杯が普及していきました。
「乾杯」は「万歳」だった
明治末期、同盟関係にあった英国の艦隊を歓迎する宴席で、西洋式に祝杯を挙げる場面が登場します。その際にはグラスを掲げ、掛け声は「万歳」の唱和だったといいます。一方で、「万歳」は天皇陛下への祝賀を意味していたことから、それに代わる一般的な祝杯を挙げる際の言葉を探され、「乾杯」が見出されたのではないかと推察されています。国語辞典の見出し語に「乾杯」の文字が見られるのは大正期に入ってからで、昭和期に入ってからは広告のコピーにも登場するようになりました。
日本の酒の儀礼
日本の酒宴においては、神事など正式な儀礼や手続きに則って行われる礼講と、儀礼や作法にとらわれない無礼講とを、はっきりと分けることが習わしとなっています。昭和初期の新聞記事には、「日本酒で乾杯」されたとの記述が見られ、オリンピックの祝勝会で、第一杯目は礼講の締めとして日本酒で乾杯し、その後はビールでの無礼講となっていったことが記されています。
また乾杯は、西洋では宴会途中の一つの区切りであることに比べ、日本では現在に至るまでも宴会(無礼講)開始の合図として認識されていることから、日本では独自のならわしとして形を変え定着していったことが伺えます。
もともと日本では、食の基本となる米で造られた酒が尊いものとして神様に供えられ、酒を介した儀礼、酒杯のやりとりを通じた麗しい文化が形成され、大事に継承されてきました。神事の最後に行われる「直会」(なおらい)は、神様と共に飲酒し、共に神撰を食べることで神様に近づく儀礼です。現在でも、住宅新築の地鎮祭や上棟式などでその様子を見ることができます。
「式三献」は、中世の貴族や武家の社会で定着した基本的な献立や作法で、一つの肴の膳と、三口で飲む酒との組み合わせを一献として、これを三度繰り返す儀礼です。神前の結婚式で杯をやりとりして契りを結ぶ「三三九度」は、「式三献」をもとにした儀礼で、杯に「三回」注ぎ、その酒を「三口」で飲み、これを「三度」繰り返します。
日本の伝統文化を育み大切にするという土壌の中で、近世に取り入れられた「乾杯」も、新たな儀礼として、現在では広く社会に浸透することとなりました。
- 【参考文献】
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- 神崎宣武 『乾杯の文化史』 ドメス出版 (2007年)
- 京都市 「京都市清酒の普及促進に関する条例」 (2013年1月15日)
- 日本酒で乾杯推進会議 「日本文化のルネッサンスをめざす~日本酒で乾杯推進会議」 (ウェブサイト、2006年)
- 山本志乃 「文明開化と乾杯」 『乾杯の文化史』 ドメス出版 (2007年)