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鏡開き用の四斗樽(樽詰菰巻)▲伝統的な格式を現代に残す鏡開き用の四斗樽(樽詰菰巻)

酒樽と量り売り
もともとは箱型だった酒樽

酒の文化を知る - 酒器の周辺

樽や桶は日本特有のものというイメージがありますが、すでにローマ時代にヨーロッパで普及し、中国を経て鎌倉時代に伝わったとされています。森林が豊かな日本では、あらゆる用具に木を加工したものが使われてきました。くり抜いただけの器から、木板を組み合わせて作る樽、さらに漆塗りに蒔絵を施すなど装飾性も高められていきます。

指樽▲指樽(さしだる、月桂冠大倉記念館・蔵)

もともとは箱型だった酒樽、その形状と移り変わり

箱型に板を組み合わせた「指樽」(さしだる)は、室町時代から使われました。贈答用に漆を塗り、側板に家紋を描いたものが見られます。その後、木板を円筒状に組み合わせ、竹の箍(たが)をはめた結樽(ゆいだる)が普及すると指樽は使われなくなっていきました。
「手樽」は、樽の左右から把手(とって)が突き出した容器です。把手に持ち手の柄を渡したものも見られます。その代表的なものに室町時代に使われだした「柳樽」があります。柳の木を加工して、五合~五升(900ミリリットルから9リットル)までのものが作られました。樽づくりの技術が未熟だった当時のこと、柳の木はやわらかいため加工しやすく、そのうえ水もよく吸収するため、隙間から液体が漏れにくいという利点がありました。これとは別に、当時、京で名声をはせた柳酒屋(やなぎのさかや)が用いた手樽も、特に柳樽と呼ばれていました。柳樽は、酒屋の貸し樽、売り樽として主に運搬用に用いられたようです。
柳樽の把手を角のように立派にして、朱漆や黒漆を塗った「角樽」(つのだる)は、慶事の贈答に用いられます。容量は一~三升ほどが主流です。角樽の胴を丸型に変えた兎樽(うさぎだる)も祝い事に使われました。
樽づくり技術の発達により、江戸時代には、銑(せん)や丸鉋(かんな)を使って杉材が加工され、現在同様の酒樽が使われだしました(江戸時代は三斗五升入り)。杉樽は軽量で、運搬容器として重宝されました。銘柄を刷り込んだ藁菰(わらごも)を巻いて出荷し、酒店や居酒屋の店頭に積み上げられていました。酒店では酒樽から貸し徳利に詰め替えて量り売りされました。

四斗樽▲かつては四斗樽に太縄をかけただけで出荷されることもあった。菰は移送中の樽を保護するものとして江戸中期から始まったとされる。装飾性に富むようになったのは大正の頃からという

量り売り(はかりうり)

もともと日本酒は神事・祭事に合わせて造られ、その場で飲まれるものでした。奈良時代から平安時代にかけて市ができると、酒も物々交換されるようになりました。酒の売り買いが行われるようになったのは貨幣経済が普及する12世紀以降のことで、量り売りもこの頃から始まったと思われます。現在同様の酒樽は江戸期に開発され、これが蔵元から問屋、小売屋へと流通していきました。 小売屋では、お客様が買いたい量を告げると、酒樽下部の呑口(のみくち)から枡や漏斗を用いて通い徳利に詰め替え、販売していました。

大正初期の小売店▲樽詰酒とびん詰酒が整然と並ぶ大正初期の小売店(舞鶴屋、東京都芝区=現・港区)。樽詰酒を量り売りする様子がよくわかる珍しい写真。店頭には容器を洗う水道の蛇口が見える

明治時代にびん詰が登場。月桂冠では樽詰が全盛だった時代、びん詰の商品化に力を注ぎ、1902年(明治42年)頃から、びん詰の酒を発売していました。防腐剤なしの日本酒、駅売用のコップ付きの小びん、劣化を防止する褐色びん詰の酒など、次々と新たな切り口の商品を開発すると共に、蔵元の元詰により品質を保証した商品として、次々と上市していったのです。まだ大半の日本酒が量り売りされていた昭和初期には、本格的びん詰めプラントを導入しています。びん詰の酒は、昭和初期、樽詰の数量を追い越し、昭和20年代にもなると、びん詰の酒が主流になりました。さらに現在では、パック詰が市場の6割を占めるようになるなど、酒容器は時代とともに移り変わってきました。しかし現在でも、新年の祝賀式や結婚披露宴などにおいては樽詰の菰被(こもかぶり)で鏡開きが行われ、結納などの祝儀や祭礼に角樽が用いられており、伝統的な格式が継承されています。

【参考・引用文献】
  • 石村真一『樽・桶』I、II、III、法政大学出版局(1997年)
  • 小泉和子・編『桶と樽-脇役の日本史』法政大学出版局(2000年)
  • 森太郎「日本の酒器」『世界の酒の履歴書』シリーズ・酒の文化第2巻、社団法人アルコール健康医学協会編(1997)