港町としての発展の歴史 ▲伏見の町(写真右岸側)に沿って流れ行く宇治川。堤(左岸)を造って、宇治川を、巨椋池から切り離す土木工事で、伏見の町に引き寄せた。手前は観月橋。かつては豊後橋が架かり、京と奈良とを結ぶ新・大和街道を走らせた。奥の鉄橋は澱川橋梁(近鉄・京都線)

港町としての発展の歴史

京都・伏見を訪ねる -日本で唯一の川の港、伏見港

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伏見、城下町の形成により整った港町のインフラ

安土桃山時代の1594年、豊臣秀吉は桃山丘陵に伏見城を築城し、政治経済の中心として首都づくりに取り組みました。伏見港はこの頃につくられた河川港であり、伏見は大坂と京の町とを結ぶ水運の拠点として発展しました。
伏見城の築城と共に城下町がつくられ、全国の大名たちの屋敷、商家・町家が城を取り巻くように広がりました。同時に交通網を整備、街中に街路を構築し、城の外濠として水路を巡らせました。街中に留まらず、巨椋池に槙島堤、淀堤、小倉堤など、「太閤堤」と呼ばれる堤防をつくり、城のたもとに街道や河川などの主要な交通の動脈を集中させる大土木工事を行ったのでした。槙島堤は、伏見の町の南側に沿う形で、宇治川の流れを巨椋池から分離するようにして引き寄せ、淀堤は宇治川の流れと淀川、桂川を直接結び、伏見と大坂とをつなぐ水路として整備を進めました。小倉堤は宇治川にかかる豊後橋(現在の観月橋)を通り、伏見から奈良へと巨椋池の水上を貫くように走らせた新・大和街道として整備されました。さらに、京街道、西国街道、大津街道、伏見街道、竹田街道、宇治街道などを含め、全ての道を伏見の城下町に通しました。伏見はまさに交通の要衝となり、水路・陸路から天下の物資が集中し、町の発展が加速していったのでした。
豊臣秀吉亡き後の江戸時代、徳川政権によって伏見城が築き直され、家康、秀忠、家光の三代までの将軍が政治を執り行いましたが、1620年代に入り廃城となりました。しかし、城下町時代に整備された水路・陸路のインフラが残ったおかげで、伏見はその後、港町・宿場町として再生、東西から大勢の人波が行き交って賑わい、新たな発展を遂げるようになったのでした。

宇治川に架かる「豊後橋」の様子 ▲江戸時代の伏見の名所を紹介した『伏見鑑』(ふしみかがみ、月桂冠史料室・蔵)に描かれた宇治川に架かる「豊後橋」の様子。安永年間(1772~1780年)の発行

京の町への玄関口として発展―高瀬川の開削―

江戸時代、1779年(安永8年)に発行された『伏見鑑』には、伏見は「伏見の港」を意味する「伏見津」(ふしみつ)と記されています。「伏見」は港町として発展したことにより言い慣わされたのでした。
伏見の港町としての発展に欠かせなかったのが、伏見から京の町中を結ぶ、高瀬川の開削でした。京の町へは従来、淀川から伏見の町の西寄りに位置する鳥羽を迂回して、鴨川を遡る舟航路が一般的でした。京の町の経済的な発展に伴って、角倉了以が高瀬川の開削に取り組み、伏見の城下町から京の二条に向かって直上する舟運ルートを、1614年(慶長19年)に開いたのでした。伏見から京の町中へと至るには、高瀬川を舟航することが便利となり、港町の中心となった伏見の南浜界隈は水上交通の要所として栄えました。

宇治川に架かる「豊後橋」の様子 ▲角倉橋、であい橋の近くで、濠川と合流する旧高瀬川(左側)。往時は高瀬舟が行き交った川も、今では小さな水路となっている。すぐ脇には、「角倉了以翁水利紀功碑」が建つ

【参考・引用文献】
  • 『京都市立伏見南浜小学校創立130年記念 郷土史』京都市立伏見南浜小学校(2002年11月23日)
  • 三木善則『伏見こぼれ話』復刻版、京都伏見ロータリークラブ(2018年4月20日)
  • 山本真嗣『伏見 くれたけの里』京都経済研究所(1988年5月)
伏見港

京都のイラストレーター、ながた・みどり氏がデザインした「伏見港」の飾り文字。港町伏見を象徴する川、十石舟、酒蔵、三栖閘門などで文字が形作られている

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