港町の面影を訪ねて ▲濠川から月桂冠の酒蔵群を望む(明治後期頃)。現在、月桂冠旧本社のあるあたりは、浜地となっていた。酒造用の原料米であろうか、米俵を積んだ川舟が接岸している。中央の酒蔵(西蔵)に沿ってトロッコ用のレールが敷かれている。居並ぶ酒蔵群は現存し、酒どころの景観を形成している

港町の面影を訪ねて

京都・伏見を訪ねる -日本で唯一の川の港、伏見港

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舟運の盛衰

往時の伏見港には、三十石船や二十石船、十五石船、高瀬舟など、2千隻もの船舶が舟航しており、これらの多くは過書船と呼ぶ幕府公認の船でした。ことに三十石船(長さ17メートル、乗客定員28人)は有名で、大坂と伏見との間で旅客や荷物を運んでいました。大坂から伏見への上り(遡上)に1日、下りに半日の行程だったと言います。月桂冠の旧本社あたりは南浜と呼ばれ、京橋や中書島を含む界隈は伏見港のターミナルとして旅客や物資の集散地となっていました。

京橋、蓬莱橋あたりの風景 ▲『都名所図会』(江戸期)に描かれた京橋、蓬莱橋あたりの風景。かつて京橋の東側で、宇治川に向かって川が流れ込んでいた。今は埋め立てられて存在しない宇治川方面への川筋と、かつての今富橋(左手前)の存在がわかる

明治時代の初期頃までは、まだ水運が交通の主力で、三十石船に代わって外輪式の蒸気船が宇治川、淀川を舟航し、多くの旅客や物資を運んでいました。しかし20世紀に入ると、旅客や貨物の運輸も、当時全国で発達し始めた鉄道網にとって代わられ、舟運は次第に衰退していく運命にありました。伏見においても、1894年(明治27年)に、京都疏水の水力発電による電力を使って、日本最初の電気鉄道(のちの市電)が京都の町中(塩小路七条)から伏見(油掛町)までを結びました。その翌年には、京都と奈良とを結ぶ奈良鉄道が開通しました。さらに1910年(明治43年)には京阪電鉄が、淀川三十石の舟航路にあたる大阪・天満橋から京都・伏見の中書島を経由して、七条までを結んだのです。

宇治川へ流れ込む川筋の痕跡 ▲『都名所図会』に描かれた宇治川へ流れ込む川筋の痕跡が、京橋の東側に見られる。現在ここは三十石船の船着き場となり、公園として整備されている。その後方は埋め立てにより住宅が建ち並んだ。この川筋は真っ直ぐ南下し、中書島駅前の西側で、京阪本線が跨ぐ竹田街道のアンダーパスあたりに繋がっていたようである

往時の港を偲ばせる南浜、中書島界隈の史跡

伏見の町中を巡る濠川および宇治川派流、伏見の町の南側に沿って流れる宇治川の一部を含む約1平方キロメートルが、伏見港の港湾区域として、現在、指定されています。伏見城の外濠だった濠川・宇治川派流に舟航する観光舟の十石舟や三十石船に乗れば、往時の港町の面影を偲ばせる史跡や港の施設を目にしながら、伏見が港町であることを体感できるでしょう。

三栖閘門(みすこうもん) ▲1929年(昭和4年)に建設された三栖閘門(みすこうもん)。宇治川の築堤により生じた濠川との4.5メートルほどの水位差を上下させて調整し、船を行き来させていた。その後、舟運は衰退し、宇治川の水位低下もあって、1960年代にはその役目を終えた。現在では、閘室が観光船の十石舟や三十石船の船着き場となっている

【参考・引用文献】
  • 『京都市立伏見南浜小学校創立130年記念 郷土史』京都市立伏見南浜小学校(2002年11月23日)
  • 京都府港湾局「伏見港について」京都府ホームページ
  • 古関大樹「地籍図類の歴史(54)―京都府南部の地籍図17―」『月刊登記情報』一般財団法人金融財政事情研究会、通算714号、61巻5号(2021年5月号)
  • 三木善則『伏見こぼれ話』復刻版、京都伏見ロータリークラブ(2018年4月20日)
  • 山本真嗣『伏見 くれたけの里』京都経済研究所(1988年5月)
伏見港

京都のイラストレーター、ながた・みどり氏がデザインした「伏見港」の飾り文字。港町伏見を象徴する川、十石舟、酒蔵、三栖閘門などで文字が形作られている

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