名水を共有
立石、毛利橋、御堂前の「名水」井戸場
京都・伏見を訪ねる - 酒造りと水
うわさを呼んだ名水の井戸
月桂冠本社から東へ200メートル、京阪本線・両替町踏切の東側に、かつて名水中の名水といわれた「立石の井戸」がありました。伏見の各蔵元は専用の井戸を持っていましたが、名水のうわさが広まるにつれ、わざわざ汲みに訪れるようになったそうです。はねつるべで汲み上げた地下水を大きな水樽に詰め、大八車に7から8丁の樽を積んで月桂冠の内蔵(伏見区南浜町)や昭和蔵(片原町)、北蔵(下板橋町)へと一日中運び続けました。昭和初年には両替町通りに面して、近隣住人のための給水場が作られ、炊事や洗濯としても使われていました。
▲仕込水を運んだ水樽(月桂冠大倉記念館・蔵、底の直径365mm、高さ530mm、上部の直径440mm、全て外形)
名水にこだわり続けた杜氏たち
第二次世界大戦後には、地下水の水量が少なくなり始めていました。月桂冠昭和蔵の竹田街道に面した場所に井戸が自噴していたにもかかわらず、「毛利橋の井戸」(現在の伏見区役所の近く)まで、わざわざ水を汲みに行って酒造りに用いたといいます。
▲大八車で昭和蔵(伏見区片原町)に水を運ぶ(月桂冠PR映画第一号『選ばれたもの』昭和6年=1931年制作より)
杜氏たちの間では、「立石や毛利橋の井戸に限る」「大八車で運ぶと水を打つので良い水になる」との説が語られていました。しかしその後、昭和蔵の北側にあった井戸の水で比較醸造しても同じく良い酒ができ、どの井戸も変わりなく名水であることがわかりました。昭和31年(1956年)、北蔵構内に3階建ての新酒造蔵を建設した頃からは、点在する各蔵で井戸を整備して使うようになり、「名水」といわれた井戸場は次第に使われなくなっていきました。しかし、杜氏たちがいかに水を重要視したかということがわかるエピソードであり、今もその姿勢は変わっていません。
- 【参考文献】
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- 『伏見の酒造用具』京都市文化財ブックス第2集(1987年)