酒造りのマイスター考
技師と杜氏を統合した新時代の造り手
酒の産業を知る - 酒文化論・技術論
酒造りは、パスツール以降と以前で明確に分けられる。職人の間で伝承されてきた酒造りの「技」は、科学のメスが入ることで抽象化され「技術」として確立した。その結果、人類は、安全で良質な酒を安定して手に入れることができるようになった。
一方で、現在でも、極めて精妙な技を必要とする類の酒造りにおいては、再現性が十分に獲得されていない。また、酒造りのメカニズムが明らかになっても、それを実現する「技」がなければ上質の酒はできない。
現代の酒造りのマイスターは、知と技を兼ね備えていなければならない。それらを駆使してどんな酒を造るかという想像力も求められる。そして我々は、酒造りが組織的なものであり、名匠もその支えなしには誕生し得ないことを理解する必要があろう。
語り手:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。
聞き手: 酒文化研究所・山田聡昭氏
出典:酒文化研究所『月刊酒文化』1998年1月号より
昔、酒屋が酒造りの技をもっていた
ー杜氏制度が変わりつつある中で、酒造技術の伝承やシステムをどうしていくべきだとお考えですか
栗山
まず、酒造りが大昔からどういう体制で行われてきたかを振り返ってみる必要があります。 奈良時代、朝廷には造酒司(さけのつかさ)という酒づくりを行う役所があり、その時代の技術の粋が集まっていました。当然そこにはマイスターがいたと想像されます。役所の規模は、遺跡や『延喜式』(927年)の記録などからわかりますが、その長官を造酒正(さけのかみ)といい、その下に造酒佑(さけのじょう)や造酒司長(さけのつかさのおさ)という高級役人もいたようです。
しかし、実際に酒を造ったのは、大和や河内からやってくる人々で、酒部(さかべ)と呼ばれていました。その中に、酒造りのマイスターがいたと思われます。 平安時代になると、寺院の造る僧坊酒が盛んになってきました。その当時の寺というのは、大きな経済力を持つと共に、当時のインテリであった僧侶をたくさん抱えていました。このため、僧坊では、酒造りの技術レベルもあがっていったのです。そこには当然マイスターの役を果たした僧侶もいたはずですが『多聞院日記』(1478年)などを見てもこの点ははっきりしません。
いわゆる酒屋(民間の酒造業者)という商売がおこるのは鎌倉・室町時代からです。朝廷の力が次第に衰え、町衆の中に酒屋という形態が自然にできてきます。京都には342軒もの酒屋がありました。特に有名なのは柳屋ですが、残念ながらマイスターについての記録はないようですね。
こうして、町の酒屋が酒造りの技術を蓄積するようになりましたが、これが江戸中期になると変わってしまいます。幕府は、大量の米を商品化する酒屋を酒造株で把握し、その生産量をたびたび規制しました。これが結果的に酒屋を寒造り一辺倒にし、それまでのように、年中酒が造れなくなりました。酒屋のもっていた酒造り技術の伝統は、冬の間だけ農漁村からやって来る技能集団へと移っていき、現在の杜氏・蔵人(とうじ・くらびと)制度が次第に形成されていきます。
それが、戦後、日本経済の急成長によって、社会や産業構造が急速に変革し、農漁村の過疎化が進んで、杜氏・蔵人になるべき人々が次第に減少してゆきました。いまや、この制度は後継者不足によって、根底から見直さざるを得ない状態になっているのです。
▲昭和初期の酒造り。月桂冠PR映画『選ばれた者』(1931年=昭和6年制作)より
メインの酒蔵とともに移動する月桂冠の研究所
-もう一度、酒屋自体が技術をもつシステムを作ろうとしているわけですか。
栗山
そうです。私もこの業界に入ってほぼ半世紀になりますが、入って一番びっくりしたのは、会社が醸造には直接タッチしていないということでした。酒造りはすべて杜氏にゆだねられていたのです。
月桂冠は明治の末から壜詰めという新しい形での酒の販売に力を入れてきました。しかし、酒を造るのはあくまでも杜氏。貯蔵した酒を管理したり、壜に詰める工程などは会社がやる仕事というふうにはっきりと区別されていました。もちろん、当時はよその酒屋もみなそうでした。杜氏も「ご主人から米をあずかって酒にしてお返しし、故郷(くに)へ帰る」という考えが根本にありました。だから酒造りの技術は杜氏仲間で研鑽され、会社はほとんどタッチしないし、口も出さない。これは他の伝統産業、焼物、織物など、どこにも見当たらないめずらしいシステムです。
しかし、メーカーというものの存在を支える根幹はやはり製造の技術です。それを、こうしたシステムのままでは、いつまでたっても会社自体に技術が育ちません。これではだめだ、酒屋が自ら手を下すようにしなければと私は思ったのです。
私共が35年前に始めた四季醸造こそ、それを実現するための、社員という新しい技術集団によるシステムだったのです。こうすることによってはじめて室町以前のマイスター制を復活させることができると考えたのです。
そう言うと、杜氏はマイスターではないのかということになりますが、杜氏というのは、あくまでも請負制のマイスターであって、いかに蔵元と厚い信頼関係の仲であっても、何らかの理由で杜氏が変われば、その技術はその蔵から消えてしまうことになります。これは仕方のないことです。実際、造る酒が気に入らぬからと次々と杜氏を変える蔵元もいました。これではいつまでたっても酒屋自体に技術は定着しません。
明治時代になって、杜氏以外に技師というものが生まれました。そうすると、「この技師と杜氏はどんな関係になるんだ」ということになりました。大蔵省醸造試験所の技師や各国税局の技官などというのは、産業育成のための指導官です。コンサルタントともいえるでしょう。民間企業である月桂冠でも、明治42年に初めて技師を雇いました。その当時は偉い学士さんを「招聘」したといっていましたがね。これは月桂冠にとってもエポックな出来事だったと思います。
そして、早速、当時のメインの酒蔵であった北蔵に「大倉酒造研究所」を新設します。江戸時代の尾州屋敷の後に建てた蔵です。大正になって、薩摩屋敷跡の大賞蔵がメインになると、研究所はその構内に移りました。さらに会社が発展して大きくなり、紀州屋敷跡の昭和蔵がメインになると、また研究所を移設しています。昭和36年からは大手蔵という四季醸造蔵がメインの酒蔵となりましたので、その敷地の入り口に「月桂冠総合研究所」を新設したのです。
このように当社の研究所はメインの酒蔵といっしょに転々と移っています。これは技術に対する私共の基本的な考えに基づいているのです。研究所はあくまでも生産現場のそばにあって、問題が起こったら直ちにそれをとりあげて研究し、解決すれば、すぐさまこれを生産現場に返すという考え方です。こうした長年の地道な努力の積み重ねも、新しいマイスター誕生に大いに役立ったと思っています。
▲清酒メーカー初となった大倉酒造研究所、その初代技師として務めた濱崎秀
▲初代の大倉酒造研究所(現・月桂冠総合研究所)の建物(左側の洋館、撮影は大正期、現在の京都市伏見区下板橋町)。醸造りに科学的技術を導入し、清酒の品質を向上させていく始まりとなった
技師と杜氏を統合したマイスター
今、当社では「融米造り」というエポックメイキングな酒も造っています。この新しい醸造法は、これを考え出したのも、実際の生産に当たっているのも、みな社員である研究者や技師であって、これまでの杜氏ではありません。
この「融米造り」だけでなく、例の「四季醸造」や「常温流通の生酒」の技術などは、いずれも、業界に先んじた当社独自の技術開発で、それらはすべて社員の技術集団が試行錯誤しながら完成させた技術です。したがって、四季醸造を成功させた時も、私は「決して新しいことをやったわけではない、室町以前のシステムに戻しただけだ」と言ってきました。
そのうち吟醸酒がブームになりましたが、「吟醸酒だけはベテラン杜氏の手づくりでないとできない」と言われていました。そこで、私共は「そんなことはない、これも社員でやれるはずだ」と、社員だけで吟醸酒を造ることにチャレンジし始めたのです。 まず、名杜氏の経験とカンによる技法を社員である技師や醸造部員たちが苦労しながらも修得しました。ついで、その技法を徹底的に調査研究し、それを先端的科学を駆使した新しい技術として再構築しました。こうして吟醸酒造りのノウハウを会社として蓄積することに成功したのです。
その結果、全国新酒鑑評会で、月桂冠は15年も連続して「金賞」をとり続けていることはご存じのとおりです。おかげで昨年も出品した7蔵全部が金賞をとることができました。しかも、その中、大手一号蔵、大手二号蔵、北二号蔵、灘蔵の四蔵はすべて社員蔵です。それに南部杜氏の昭和蔵、広島杜氏の内蔵、但馬杜氏の北一号蔵も入賞を果たしました。
私共にとっては、7蔵すべてが入賞したということよりも、社員蔵が4蔵、杜氏蔵が3蔵と、金賞受賞蔵も、社員蔵の方が多くなったことこそ意義があると思っているのです。昔と違って現在は杜氏に対する会社の技術的サポート体制は随分と大きくなっています。そういう体制の中でこそ、かえって従来の杜氏という古いマイスターの良さもいきてくるのではないかと思っています。
▲月桂冠の主力蔵、大手1号蔵と大手2号蔵
-ポスト杜氏のシステムづくりに早くから取り組んだ結果、ようやく見えてきた着地点というように感じますが・・・。
栗山
そうですね。月桂冠が四季醸造を始めた昭和36年(1961)以降、私は業界の会合などで、いつも言ってきました。「もうしばらくすれば昔ながらの杜氏はいなくなるよ」と。
まだ私が会社に入ったばかりの1950年頃は、たいていの杜氏の息子は、杜氏になるべく英才教育を受けていました。それが、10年後には、私共の杜氏の中で、息子が蔵に来ている人は一人もいなくなっていました。みなもうサラリーマンになっていたのです。よその蔵に聞いてもそうでした。20~30年後に当時の杜氏がいなくなったら後継者がいなくなるのは明白でした。
そんな状況なのに、依然として業界内では、私共がはじめた社員によるシステムは批判され続けました。私は「もうそんな批判なんかしている時期ではないですよ」と言っていたんですがね。
事実、昭和40年には全国でまだ28,000人もいた杜氏・蔵人は、平成6年には、8,000人という有様です。30年ほどの間に、3分の1以下に減ってしまったのです。
▲竣工当時の大手一号蔵。日本初の四季醸造システムを備えた酒蔵である(1961年)
科学と技術の進歩を拒む壁
-すでに、いまでは杜氏の技術を相当コンピュータ化されていると聞きますが。
栗山
例えば、吟醸酒を造る技術には相当な量のノウハウがいります。しかも、その技能を伝えることができなければ、さらなる技術の発展もあり得ません。うちの場合は、それらをすべてファジィー理論によって数値化し、コンピュータにインプットしているのです。
話は戻りますが、明治40年、速醸もとが開発された頃から酵母添加の必要性は言われていました。 事実、協会二号酵母は、明治時代に月桂冠の新酒から分離された酵母です。そういう経緯のある酵母もありながら、私が会社に入った昭和25年までは、月桂冠では培養酵母はほとんど使っていませんでした。いわゆる蔵付き酵母、つまり、その酒蔵に住みついている酵母でもろみが発酵していたのです。
それまで、月桂冠には技師もたくさんおりました。明治42年入社の最初の技師から数えて私は9人目なんです。にもかかわらず、それまでは培養した酵母は使っていなかった。なぜか。それはまだ社員の誰もが実際に酒を造ったことがなかったし、技師もまだまだ研究者であって、杜氏に対するアドバイザーにすぎず、実際の生産ラインには入ってなかったからです。
それに杜氏の方は「自分こそ酒造りの責任者だ」という自負が強かった。このため、技師の方もやはり遠慮があったんでしょうね。 もうその頃は醸造試験所ではすべて純粋培養した酵母を使っていました。けれども杜氏たちは「試験所は試験としていろいろやっているにすぎない。我々のように売る酒を造っているのとはわけが違う」と考えていたようです。
昔から技師は杜氏たちから「先生」と呼ばれてはいましたが、その実「若造に何がわかるか、わしらはご主人から米を預かって酒を造っているんだ。余計な口出しはしないでほしい」という思いがその根底にあったように思います。
それより昔、明治時代、大蔵省から派遣された技師が指導しに酒蔵に行った時、そこのご主人は「よく来てくださいました」と、奥座敷へ通し、自蔵の酒を出して批評をお願いする。けれども蔵には入れてもらえなかったといいます。蔵に行こうとしたら大戸が閉めてあって「技師これより立ち入るべからず」と貼り紙がしてあったというのです。これは当時の技師の技術レベルや、その知識が十分でなく、そのため指導を間違い、酒を腐らせてしまったこともあったからだといわれています。
私がこの業界に入った時は、それからすでに50年もたっており、速醸や山廃も随分と改良が重ねられていました。それでも私が「1本のもろみでもいいから、私が培養した酵母を使ってくれ」と頼むと、杜氏は「いいですね」とは言いますが、実際には全く使おうとはしません。当時は、トップメーカーの月桂冠ですら、まだこんな状態だったのです。
それに、私もまだ若かった。何としてもやってみたいと、杜氏の補佐役である頭(かしら)とひそかに話し合って、内緒で一本だけ培養酵母を使うことにしたのでした。
しかし、仕込んで5日もすると、すぐにばれてしまいました。ほかはすべて蔵付き酵母で発酵してるんですからね。そのもろみだけ、香りも泡の立ち方も違いますから、ベテラン杜氏にはすぐにわかってしまいました。 「これ、どうしたんだ」と問い詰められた頭が「栗山先生に頼まれてやった」と白状してしまいました。杜氏は「わしのことを聞かずに、先生の言うことを聞くのか。それなら俺は帰る」と怒り出したのです。夜中だというのに、頭は青くなって、私のところに駆け込んできました。「うちの杜氏はああいう几帳面な人だ。冗談なんかじゃない、えらいことになった」と言う。
その杜氏は、杜氏たちの中でも、医学博士の息子をもつ一番のインテリで、私もいずれは話せばわかってもらえると思っていた人物だったのです。しかし、杜氏はもう荷造りをはじめていました。朝一番の汽車で帰ると言う。これは大変なことになったと、私はひたすら謝りに謝りました。ようやく明け方になって「まあ、それほどまで言うんなら、この1本だけは捨てたことにしましょう。ご主人には誠に申しわけないけど」とやっと許してもらえた。結局、今までとは違った酵母で造った酒なんて、自分には責任がもてないということなんです。
それから20日ほどたって、いよいよそのもろみを搾ることになった。その結果、なんとすばらしい酒になっていたのです。これを知った杜氏は、態度をガラッと変えました。あれだけ怒っていたのに「後の仕込みは全部これでいきましょ」と言い出した。これには私も驚いた。さらに、この噂が他の蔵にも伝わって「なんであの蔵にだけ特別に酵母を分け、わしらにはくれへんのや」と言い出す始末です。それからというもの、月桂冠のすべての仕込みは純粋培養したいろんな酵母を使うようになったのです。
-それが昭和26年ですか。
栗山
ええ。この小事件こそ、それまでの技師と杜氏の関係を如実に象徴しているといえそうです。 それに、現在、随分と造られるようになった吟醸酒づくりでは、必ず培養した種々の特定酵母が使われているんですが、このことはとくに私にとっては、感慨深いですね。
酒屋の歴史としては、江戸時代中頃に、杜氏・蔵人制度ができあがっていく過程で、酒屋の主人は酒を売るだけ、酒造りの方はすべて杜氏たちにゆだね、主人はアンタッチャブルということになってしまった。こうした杜氏発生の経緯を知った私は、酒屋の技術もこのままでは将来大きな発展は望めなくなると考えました。
それから10年後の昭和36年、私共は杜氏・蔵人の全くいない四季醸造という酒造りを始めたわけです。 とにかく、この小事件をきかっけに、月桂冠では、杜氏と技師は随分と親密になることができましたし、また、その後40有余年、紆余曲折を経ながらも、新しい酒造り技術の開発にも成功したのでした。
とくに、技師が吟醸酒造りのノウハウを修得したり、社員の技術集団が新しい吟醸酒造りの技術を創り上げる際にも、杜氏たちはよく協力してくれました。これもお互いあの時の教訓が大きな力になっていたように思いますね。
現在、月桂冠では、杜氏という昔ながらのマイスターもなお活躍していますが、そんななか、社員の技術集団からは、先端的バイオ技術とコンピューターシステムを駆使する「21世紀のマイスター」も、すでに何人も誕生しています。さらに、これに続く若い人達も確実に育ってきており、その将来の発展も大いに期待される段階に来ています。