酒どころ京都・伏見
川がとりもつ人と酒の縁
京都・伏見を訪ねる - 酒どころ京都・伏見
城下町・港町・宿場町として発展してきた伏見。江戸期には、この都市で商い暮らす人々、往来する旅客など人波の中で酒の需要も高まり、明治期からは酒産業の集積も進んだ。伏見酒造組合醸造研究所を設立し酒造りに科学技術を導入、樽詰全盛の時代にびん詰酒の商品化に力を入れ、鉄道の開通と共に全国に向けて出荷するなど、酒の世界に新しい風を吹き込んでいった。
公益社団法人日本河川協会の会報『河川文化-人と川との新時代へ』(2010年6月)のシリーズ河川文化を語る・特集「川と酒」に掲載された記事を、発行元の許諾を得て採録した。
大坂から京の伏見へ
江戸期の観光案内図『大川便覧』には、当時の旅路が生き生きと描かれている。京の南部に位置する伏見と大坂・天満間の大川(現在の淀川)流域、その下流の安治川と土佐堀川の合流点までを折本にまとめたイラストマップで、川面には帆船や三十石船が浮かぶ。船頭たちの威勢の良い掛け声や、船客の歓声が聞こえてくるようだ。序文には「樋(水路)はことごとく印をつけ、磁石をふり、東西の方角を知らしめ・・・」とある。目印がいくつも記されており、船客らに重宝されたことだろう 。
▲『大川便覧』に描かれた伏見・中書島界隈。宇治川をまたぐ豊後橋(現在の観月橋)、中書島にかかる蓬莱橋、金井戸島にかかる京橋など現在にその面影を残している。「天保十四年九月再生」(1843年)とあるが、文字・絵ともに鮮明(月桂冠大倉記念館・蔵)
『都名所図会』の「淀」を基に描かれた歌川(安藤)広重の「京都名所之内 淀川」には、船上で盃に酒を酌んでいるような旅人の様子が描かれている。煮売茶船が横付けし、田楽や寿司、餅などと共に酒を販売した。船客たちは、大坂から伏見への旅路を酒と共に楽しんだ。伏見南浜あたりに軒を連ねる船宿で旅装を解いてからも、伏見の酒で旅の疲れを癒したことだろう。
酒文化を育んだ都市
酒どころとしての伏見の産地形成には、都市としての発展が欠かせなかった。その歩みは、豊臣秀吉が伏見城を築城した頃に遡る。1594年の大城郭造営に伴い城下町が整備され、同時に河川を大改修した。諸大名の屋敷や商家が配された城下町に外濠を巡らせ、堤防を築き淀川・宇治川・桂川を結んだことが港町としての発展のもとになった。堤の上に街道を通し、大坂城と結ぶ文禄堤には京街道を走らせ、さらに西国街道・大和街道・大津街道、京の町とを結ぶ竹田街道・伏見街道など主な街道を伏見に通じるようにした。
▲豊臣秀吉時代の伏見城下町図(模写版)
伏見城はその後、徳川家康が支配したが、1623年に廃城となり、町の発展は一時停滞した。しかし再び、京の町への玄関口として、大津・大坂・奈良とを結ぶ水陸交通の要衝として発展を見せる。1635年に参勤交代が始まり、宿場町・港町として人や物資の流れが活発になる。伏見南浜には、大名が宿泊する本陣や家臣のための脇本陣、旅籠が軒を連ねていた。
旅客の往来で賑わうこの界わいでは、酒の需要も高まっていた。伏見で造酒株(酒造免許)を下付された酒造家は1657年の時点で83軒を数えるほどになっていた。月桂冠の初代・大倉治右衛門も、1637年、木津川上流の笠置から出てきて酒屋を創業。出身地から屋号を「笠置屋」とした。三十石船の船着き場にもほど近い街道筋に面した立地を生かして酒の製販業を営んでいた。
▲笠置屋享保三年(1718年)からの勘定帳。「新酒」「古酒」「合酒」「煮込」「寒酒」「春酒」「南蛮酒」などの名称が見られ、年間を通して多彩な酒を商っていたことがわかる
往来する人波に育てられた酒
江戸期の伏見酒は地酒として、主に旅客や地元の人たちに飲まれた。維新の激動をくぐりぬけ、明治へと時代が変わると、伏見酒は主産地としての地位を確立していく。水上交通で結ばれていた伏見と京都・大阪・奈良との間に鉄道が敷かれた。さらに1877年には大阪・京都間が、1889年には東海道線が開通したことが大きな力となる。
一方この頃を境に、淀川を就航した外輪船による水運は衰微しはじめる。伏見酒は東京市場への進出を目指したが、当初、鉄道はコスト高に加え接続も良くなかったことから、酒の輸送に関してはまだ汽船の方が優勢だった。20世紀に入り、船から鉄道輸送への移行を急速に進めた。内陸部に位置する不利な地理的条件ゆえ、他産地に比べても取り組みが早かった。さらに1909年、伏見酒造組合醸造研究所を設立し酒造りに科学技術を導入、品質の向上を成し遂げる。全国の品評会で上位入賞するなど声評を高めた。販売面でも工夫を重ね、例えば月桂冠では1910年、コップ付きのびん詰酒を駅売酒として発売、鉄道網の広がりに乗せてブランドを全国へ浸透させていった。
来る人を拒まず受け入れる商人の町として、人の流動性が高く、多様性を持ち自由闊達な雰囲気が酒に与えた影響は大きい。伏見の酒造家たちの俊敏で進取性に富んだ対応は、「規範的な同調圧力を打破することへの抵抗感の低さ、その型にはまらない特性をもち、それはいち早い判断力、制度を変えることへの働きかけを起こさせる原動力となった」ところからくるとも考察されている(藤本・河口、2010年)。このような気質は、大都市に所在したことにより、往来する人波の中で琢磨されながら培われてきたとも言えるだろう。
▲伏見城の外濠に続く運河沿いに建つ月桂冠内蔵酒造場(明治期)
水・歴史・酒の街として再興
酒どころの伝統は現在にも生きている。伏見酒造組合には25社1組合が所属する。古くは江戸期・明治期建造の酒蔵も現存し、界わいは昔ながらの風情を残す。蔵を記念館や飲食店として公開する企業もあり、きき酒会や蔵開きなどの行事も定着している。酒造りも連綿と続いている。日本酒の寒造りが最盛となる厳冬期には、蒸米や発酵によって醸し出される香りがあたりに漂い、酒どころの雰囲気が一層高まる。
水の街・歴史の街としての魅力も重なる。伏見城の外濠だった濠川や、合流する宇治川派流沿いには遊歩道が整備され、水辺をたどりながら近隣の史跡や酒蔵群を探訪できる。幕末史ゆかりの見どころも多い。春から秋にかけては、観光船の十石舟、三十石船が就航する。十石舟は月桂冠大倉記念館西側の舟付場を出発し、公園として再生された三栖閘門を折り返す。
▲三栖閘門は、伏見港の濠川と宇治川との水位差を調節し、船舶を行き来させるため、1929年から1962年まで運用された。2003年、閘門の扉室をシンボルに一帯は公園として再生。十石舟・三十石舟の航路の折り返し点となっている
界わいは京阪線・近鉄線・JR線などの鉄道や幹線道路の経路が集中し、現代の交通の要衝としてアクセスも良い。京阪電鉄は、京街道の宿だった伏見・淀・枚方・守口を縫うように運行し、三十石船が通った区間に相当する中書島・天満橋間を30分強で快走する。
この間を徒歩でたどれば、宿場ごとに育まれた地域文化や江戸の旅路を体感できる。現代の道中図とも言える『大坂~大津ルート 東海道57次イラストマップ』と題した徒歩ガイドを、市立枚方宿鍵屋資料館がまとめている。三十石舟が通った淀川の流れとも並行し、川縁を歩く行程も多い。伏見へご到着の折には、江戸時代の旅客の気分で地の酒を味わって、おくつろぎいただきたい。
- 【出典】
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- 田中伸治 「酒どころ京都・伏見、川がとりもつ人と酒の縁」
『河川文化』 50号、特集「川と酒」、社団法人日本河川協会 (2010年6月)
- 田中伸治 「酒どころ京都・伏見、川がとりもつ人と酒の縁」
- 【出典における参考文献】
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- 京都市立伏見南浜小学校 『創立130年記念』 (2002年)
- 栗山一秀 「不死身の伏見―東海道は五十七次だった―」 『洛味』 584集 (2001年)
- 伏見酒造組合 『伏見酒造組合一二五年史』 (2001年)
- 藤本昌代 ・河口充勇 『産業集積地の継続と革新』 文眞堂 (2010年)
- 山本真嗣 『伏見くれたけの里』 京都経済研究所 (1988年)