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幻の巨椋池(おぐらいけ) 昭和初期に干拓、大雨で現れた大池の面影▲巨椋池の蓮見舟(昭和初期)。日の出頃に開く蓮の花を見物するため早朝に舟が出た。「洛南の風物詩」として、お盆が近づく頃、遊客を集めた。「見渡す限り蓮の花ばかりの世界」で、「蓮の若葉を刻み込んだ蓮飯」が見物後の宿の朝食だったという(『和辻哲郎随筆集』「巨椋池の蓮」岩波文庫より)。画像は『伏見区誕生70周年記念誌』(2001年)から許可を得て転載

幻の巨椋池(おぐらいけ)
昭和初期に干拓、大雨で現れた大池の面影

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桃山御陵(京都市伏見区)の上から南の宇治川方面をのぞむと、向島・マンション群の向こうに水田地帯が広がる。かつての巨椋池があった一帯である。ひと昔前は満々と水をたたえた広大な遊水池だったが、昭和初期、当時の国策により池は干拓され姿を消した。それが今から50年前、秋の長雨による大洪水によって、忽然とその幻の大池が姿を見せたのである。
著者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。
出典:『洛味』第518集(1995年11月10日発行)より

干拓地にあらわれた大池

戦後、人々がようやく落ち着きを取り戻し始めた昭和28年(1953年)のこと。その年の長雨はこれでもか、これでもかと激しく幾日も降り続いていた。
「おい、とうとう裏の濠川もあふれそうだぞ。酒蔵が浸るかもしれん。早よう用意しとかなあかん」と、雨合羽に長靴と身をかためた4、5人が飛び出していった。「そんなら、本流の方はどうなってるんや」と言いながら新蔵のエレベータ塔屋へ駆け上がってみた。1キロほど先の、いつもは堤防しか見えない宇治川が、なんと、堤防スレスレにまでに水嵩が増え、渦巻く濁流となっているではないか。「これはいかん。おそかれ早かれ堤防は決壊するぞ。堤が切れたら街の半分は呑み込まれてしまう」などと話し合ってる間も、鉦を鳴らして消防車が宇治川へ向かって走ってゆく。
どのくらいたったろうか。危惧していた通り、堤防決壊の情報が伝わってきた。ただ、それが左岸だったため、伏見の旧市街の方は難をまぬがれたが、川向うの向島(むかいじま)から南西にかけての一帯は完全に水没してしまったという。大水害である。
それから1週間ほど過ぎた夕べのこと。眼下に宇治川を見渡す指月の丘の部長宅で、定例句会が催された。句会場の2階へ上がった途端、あっと息を飲んだ。夕暮れのうすあかりの中、満々と水を湛えた大池がガラス戸一杯にひろがっているではないか。あれからもう1週間もたつというのに、洪水はまだほとんどひいていなかったのだ。こんな情景を目の前にしては、とても句会どころではない。向島の人々から伝え聞いたという生々しい話に耳をかたむけるばかりであった。
そのうち、あたりを夕べのとばりが包み始めると、水面は次第に闇の中に消えてゆき、遠くの方に点々と灯が見え出した。一面の出水の中、島のようにそこここにとり残された家々の灯らしい。

出水まだひかぬところに灯がつきぬ  栗山一秋

戦前の大干拓工事の完成によって、昭和16年(1941年)以降、この世から消えたはずの幻の巨椋池(おぐらいけ)が、今度の大洪水で一時的によみがえったのである。その夜の私たちは、想いを遠い昔へと誘(いざ)なわれていった。

干拓直前の巨椋池付近の航空写真(昭和7年、1932年)▲干拓直前の巨椋池付近の航空写真(昭和7年、1932年)。巨椋池は真ん中の黒い影の部分。東は現在の国道24号線、西は淀、南は府道・八幡荘線のあたりまで水域がおよんでいたことがわかる。画像は『伏見区誕生70周年記念誌』(2001年)から許可を得て転載

風光を愛でた景勝地

太古の昔、京都盆地は海につながる湾であった。桃山丘陵から出土する数々の生物化石がこれを証明している。それから何万年かを経て、土地が隆起し、今のような盆地が出来上がった。盆地の南端に残った巨椋池には、北から鴨川、桂川、東から宇治川、南から木津川が流れ込むようになった。
平安後期になって、関白藤原頼通(よりみち)の子、橘俊綱(たちばなのとしつな)は、宇治・平等院を築いた父・頼道にならって、丘陵最南端の景勝地・指月の丘に豪壮な伏見山荘を築き、連日のように仲間の公家達を招いて、前面にひろがる巨椋池を愛で、詩歌管弦にふけったり、酒を楽しんだりしたといわれている。 その後、この山荘は、白河院に寄進され、やがて伏見宮家が誕生、宮家に伝領されるようになった。宮家二代目貞成(さだふさ)親王は、指月の森の伏見殿を上御所(かみのごしょ)とし、巨椋池の船着場・南浜の近くに、あらたに下御所(しものごしょ、〔舟戸御所=ふなとごしょ〕)を造営、上(かみ)と下(しも)の御所を幾度となく往来して、伏見の風光を心から楽しみ愛されたといわれている。
そのためであろう、後に後崇光太上(ごすこうだいじょう)天皇となられた貞成親王のご陵墓は、いま南浜小学校の校門のそばにあって、松林院陵と呼ばれている。その西に、親王に仕えた女官が尼僧となって御陵を守った庵ができ、それが現在の松林院という寺になったといわれている。 両御所とも、その後の戦乱によって、ことごとく焼失したが、指月の森や巨椋池がかもし出す明媚な風光は幾代にもわたって人々に語り継がれていった。
今から400年前、天下を統一した秀吉もこの噂を耳にし、大池を眺めて茶の湯や宴を楽しもうと、この地に利久好みの隠居城を建てることを思いついた。何よりも豪華を好む秀吉のこと、途中、その構想は次第に大きく変わり、慶長元年の伏見大地震によって一旦はことごとく倒壊したが、こんどは大池を見下ろす木幡山の上に、壮大、豪華な伏見城を完成したのであった。 橘俊綱も、貞成親王も、はたまた太閤秀吉も、みなこの巨椋池をとりまく風光に魅せられた人たちだった。

その年は10月に入っても、出水の被害がまだまだ残っていた。伏見の氏神・御香宮(ごこうぐう)も、秋の神幸祭を自粛し「居祭り」とすることにきめられた。例年なら、社(やしろ)を発した二基の神興(みこし)は氏子の村々町々を練り歩き、夕方には、各町内の意匠をこらした花傘行列を、何十と従え、華やかに神社に戻るという洛南随一の祭りである。しかし、今年はその神興も花傘も見られないとあって、あらためて、水害に遭われた人々に深い想いを寄せることになった。
こうしてひっそりと催された秋祭りではあったが、境内に立ち並ぶ屋台だけは結構にぎわっていた。そんな屋台の裸電球に照らされた青みかんを手にした時、ふと巨椋池を渡ってきた風に触れた思いがした。

灯の下の木箱の上の青みかん  栗山一秋

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