伏見酒の歴史
酒産業の集積、江戸期の苦難、そして全国への流通
京都・伏見を訪ねる - 酒どころ京都・伏見
伏見酒のはじまり
太古の京都盆地は琵琶湖より大きな湖でした。大地の隆起により水が引き、京都盆地周辺の至るところに残った沼沢地や扇状地に古代の人たちが住み始めました。京都盆地の南端にあたる伏見でも、稲荷山頂の古墳群遺跡、西側の深草遺跡など古代人たちが暮らしていた農耕集落が発掘されています。稲作農耕の伝播と共に、麹を用いる酒造りも普及・発展し、伏見でも古くから酒造りが行われていたものと考えられています。5世紀には渡来系氏族の秦氏らが酒造りに関わり、8世紀に平安京の造酒司で行われた高度な酒造りの影響を受けながら、伏見の酒は歩みを続けてきました。1425年(応永32年)、1426年(同33年)の酒屋名簿によると京の洛中・洛外に342軒の酒屋が存在し、その中には伏見の酒屋も含まれていました。
城下町発展と酒産業集積
1594年(文禄3年)、豊臣秀吉の築いた伏見城が、京・洛外の伏見村に完成、城の周辺に諸大名の屋敷を建て、その西側には多くの町民を移住させました。その広さは東西4キロ、南北6キロ、人口は数万人に達し、京、大坂、堺に次ぐ日本一の大城下町が形成されました。秀吉は、宇治川を巨椋池から切り離し、それを城山の真下へ迂回させて舟入(ふないり)とし、その流れの一部を町の中に引き入れて城の外濠とするなど、河川の第改修を行いました。伏見が酒どころとして知られるようになるのはこの頃からです。1599年(慶長4年)の『多聞院日記』には、「伏見酒」「伏見樽」などの名称が見られます。
徳川幕府の世になると、その城も大名屋敷も取り壊されましたが、伏見の町は秀吉の改修した宇治川、淀川では三十石船に代表される伏見と大坂とを結ぶ過書船が次第に増え、また角倉了以が作った高瀬川の水運、京・大坂・大津・大和とを結ぶ街道の整備により、水陸交通の要衝となり、港町、宿場町として栄えるようになりました。水運により、米、薪炭、樽材などの酒の原材料、出荷用の酒樽など、酒にまつわる物資の数々も、河川を上下する舟で運ばれました。
さらに、1635年(寛永12年)、参勤交代の制が実施され、西国大名はすべて伏見にしばらく逗留せねばならなくなったことから、4つの本陣ができ、馬借、車借、飛脚問屋、運送問屋、材木問屋が軒を接し、舟頭町ができ、舟宿がひしめくようになり、港町の伏見は再び繁栄の道を歩み始めました。
伏見の町に旅人や物資の往来が盛んになるにつれて、酒商いも拡大していきました。加えて、かつて伏水(ふしみ)とも称され、良質の地下水に恵まれていたこともあり、伏見の酒産業は発展していきました。
▲濠川(ほりかわ、ごうかわ)、宇治川派流の名で、現在も伏見の街を流れる運河から眺めた月桂冠の酒蔵風景。1909年(明治42年)に撮影された。明治期の月桂冠酒蔵風景。手前の蔵は、明治30年代、大倉家本宅西側に増設された西蔵で、その後、月桂冠・本店事務所として1993年(平成5年)8月まで使っていた。その先には、切妻屋根が3棟連なる白壁土蔵の南蔵(現在の内蔵)、びん詰工場(現在の月桂冠大倉記念館)が続く。酒蔵群の様子は現在もほとんど変わらず、酒どころ伏見を象徴する風景として親しまれている
宿場町・港町の地酒
月桂冠の前身である笠置屋の初代・大倉治右衛門が伏見で酒造りを始めたのも、ちょうどこの頃(1637年、寛永14年)です。宿場町、港町の地酒として、往来の旅人に販路を求めた伏見酒は醸造高を次第に増し、京の街や江州(ごうしゅう、現在の滋賀県)にも販路を拡張しました。
1657年(明暦3年)、伏見の酒造家の数は83、その造石数は1万5千石余に達しました。全国的に見ると、灘地方はこの頃、酒の産地として産声をあげたばかりでした。
▲1828年(文政11年)建造、8代目・大倉治右衛門の時代に建てられた居宅兼店舗および酒蔵。1637年(寛永14年)、初代の大倉治右衛門が「笠置屋」の屋号で酒屋を創業した地でもある。大正初期(1910年代)に撮影された。1868年(慶応4年)新春に勃発した鳥羽伏見の戦では、通りをへだて北側の建物や、その並びの船宿、町家の多くは焼失したが、大倉家本宅は羅災をまぬがれた。写真中央の石柱には「右 京」「左 大坂 舟のり場」と刻まれている。江戸時代の伏見は、京と大坂を結ぶ交通の要衝であり、城下町、港町、宿場町としてにぎわっていた
伏見酒、苦難の時代
京の街では、公家の近衛家に庇護された伊丹酒が参入するようになり、一方で伏見酒は市場への参入を拒まれるという事態に陥りました。逆に伏見の街へは、江州から安価な酒が移入され、販売面ではかなり不利な状況だったようです。また、当時すでに相当量の伏見酒が、大坂の船問屋を通じて灘酒や他の酒とともに江戸へ出荷されていましたが、伏見は海路から遠いという点で不利でした。
こうした事情を反映し、1657年(明暦3年)に83軒だった伏見の酒造家も、その数や生産量は、次第に減少するばかりでした。83軒のうち、江戸末期までの200年間、伏見で酒造業を続け得たのは、笠置屋(現・月桂冠)と鮒屋(現・北川本家)の2軒にすぎませんでした。
幕末には伏見の町は勤皇方と幕府方との闘争の場と化し、鳥羽伏見の戦い(1868年)では、町のほとんどが戦災で焼かれてしまいました。経済も混乱をきたし、酒造業の経営はとても困難なものとなっていました。淀川三十石船の旅客の往来によって栄えていた伏見の街はさびれ、伏見酒の販路も大幅に縮小されるという危機を迎えました。
▲月桂冠PR映画第一号『選ばれた者』(1931年制作)より
1877年(明治10年)、西南の役が収まり、ようやく経済も安定しはじめ、1889年(明治22年)には東海道線が全線開通しました。東京における需要が回復する兆しをみてとった大倉恒吉や木村清八ら伏見の酒造家は、いち早く東京の問屋筋と交渉を始め、以後の伏見酒が全国に広まる基礎を作りました。
明治期以降には、京都市街から南部の伏見へ転入する酒蔵も見られ、酒産業の集積がさらに進みました。伏見は酒どころとして灘(兵庫県)と並ぶ日本酒の二大産地の一つとしても知られるまでに発展しました。比較的低温での発酵、もろみの末期に四段仕込みを行うことにより、京料理に寄り添う、おだやかでソフトな風味が醸し出されます。
- 【参考文献】
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- 栗山一秀 「伏見酒・序説」 『伏見醸友会誌 第9号 伏見酒(Ⅰ)』」(1980年)
- 栗山一秀「月桂冠大倉記念館」『酒史研究』第6号、日本酒造史学会(1988年9月)
- 栗山一秀 「酒どころ伏見―笠置屋の歴史(京都市)」 『全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記―ふるさとの人と知恵シリーズ(26)京都』 社団法人農山漁村文化協会 (1998年)
- 栗山一秀 「日本人と酒」、日本農芸化学会 (編集) 『お酒のはなし―酒はいきもの (くらしの中の化学と生物)』 学会出版センター (1994年)
- 月桂冠株式会社 『月桂冠三百六十年史』 (1999年)
- 伏見酒造組合 『伏見酒造組合一二五年史』 (2001年)
- 山本 真嗣 『京・伏見歴史の旅』 山川出版社 (1991年)