正月の酒
しきたり、習俗に込められた麗しい日本の心
酒の文化を知る - 酒の歳時記
古代以来、新年は生命の更新を意味していた。新しくおこした火、新たに汲んだ水で炊きあげた神饌を神々に供える。初詣、御年酒、おせち料理、年賀状など正月の習俗、細やかなしきたりには、うるわしい日本の心が感じられる。
著者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。
正月はなぜ「めでたい」か
正月はこれまで、日本人にとって最大の年中行事とされてきた。今でも人に会えば「おめでとう」と挨拶し、年賀状を交換しているが、果してどれほどの人が本当に「めでたい」と思っているだろうか。
古代以来、新年というのは生命の更新を意味していた。世界的に見ても、自然や人間というものはみな衰弱と回復、死と再生を繰り返すという基本的な観念を人々は持っていた。そこで、冬になれば、弱まった太陽の力を復活させようという原始的信仰が生まれ、いろいろなタマフリ(霊魂再生)の行事が行なわれてきた。
稲作を始めた日本人は新殻を臼(うす)に入れ、復活の唄を歌いながら杵で搗き、この白米を、新しくおこした火を使い、新たに汲んだ水によって炊きあげた。こうしてつくった神饌を八百万(やおよろず)の神々に供え、人々もまたこれを神と共食し、活力のよみがえりを期待した。
戦前の日本では「数え年」を年齢としたため、正月になると皆が一つ歳(とし)をとり「あらたまの年たちかえる」という改まった感慨にひたることが出来た。
元旦、一番鶏と共に起き出た年男は、めでたい「唱い言」をとなえながら生命の水を汲み上げ、シメをつけた手桶に杓子で汲み入れる。この若水(初水)と呼ばれる水を、まず歳神(としがみ)に供え、家族全員がこれで口をすすぐことによって、生命を新たにすることができると考えた。こうした行事は、水稲耕作の複合文化として、いまも東アジア一帯に広く分布している。
これと似たような庶民生活に密着した行事として、元旦に里芋を食べる習俗がある。里芋は子芋が多いため多産と豊穰の象徴とされる。里芋の皮をむいて食べることは、脱皮再生、若返ることを意味し、これによって人の生命も更新、活性化されると考えた。
このような行事や習俗のもとに迎える新年である。自然に「めでたい」という気持ちになっていったのだが、その心をどのようにして今後に生かしていくかは、大きな課題といえよう。
御年酒
昭和10年(1936年)、まだ平和な時代だったわが家の元旦風景を思い出す。
霜に覆われた庭の樹々に朝日が射しはじめる頃、ガラス戸を開け放った座敷には、早朝の冷気がみなぎる。まず、神棚の前に家長の祖父の後ろに家族一同が並び、柏手を打つ。ついで仏壇の前に座し、深々と頭を下げる。神さまと祖先への礼拝を終え、ようやく祝い膳の席につく。床柱の前に座った祖父に向かって、父があらたまった口調で賀詞を述べ、母と共に私達子供も頭を下げる。最後に姉、私、弟の順に、両親に向かって正月の挨拶をする。
大晦日、母と姉が夜を徹してつくったという「おせち」の入った大きな重箱がやっと開けられる。私ら子供の好きな栗きんとんや卵焼きもぎっしりとつまっていた。しかし、まだ箸はつけられない。その前に御年酒の盃を頂かねばならない。最初に最年少8才の弟が盃をいただく。年酒といっても、子供には屠蘇(とそ)を浸した味淋なのでおいしかった。次に盃は年子(としご)の私、4才年長の姉と続き、それから屠蘇を浸した日本酒が母、父、最後に70才の祖父という順に盃は廻されていった。「年少の者は歳を取る、故にこれを賀して先に飲ます。老いたる者は歳を失う。故にあとに飲む」ということで年の若い者から長じた者への順にするのだと聞かされていた。
わが家のこうした正月の祝い方というのは、祖父と父の出身地・京都府丹波の風習と、母がいとはんとして育った大阪・船場のしきたりとが重なっていたらしい。とくに漢学者だった祖父が東京をひきはらって同居するようになってからは、江戸下町のしきたりも加わっていったようだ。
▲屠蘇用の銚子と盃。大晦日の夜、屠蘇袋を酒に浸し、無病息災を祈念し新年祝いの席でいただく
屠蘇(とそ)
日本酒や味醂(みりん)に浸し、御年酒として飲まれる屠蘇。もともと中国のもので、蘇と称する悪鬼を屠(ほふ)るという意味から、年頭にあたって一年間の疾病を払い、長寿を願うものとされてきた。
その歴史は古く、古代中国では、山椒の花を浸した「椒酒」が用いられていたが、随の時代(6世紀末)になって、山椒のほかに大黄(だいおう)、桔梗(ききょう)、桂心(けいしん)、防風(ぼうふう)、おけら、虎杖(いたどり)、鳥頭(とりかぶと)を加えた8種類もの薬を合わせた屠蘇散がつくられるようになった。
これらをすべてかみくだき、赤い袋に入れ、除夜に井戸の中に吊るし、正月になってこれをとり出し、袋ごと酒の中にしばらく浸しておく。祝いの席では、その屠蘇酒を満たした杯を捧げ「一人これを飲めば一家疾なく、一家これを飲めば一里病なし」と祈念し、年の若い者から長じた者へ順に飲んだといわれている。
もちろん現在は猛毒の鳥頭ははずされており、さらに桂心、虎杖に代えて丁字(ちょうじ)、陳皮(ちんぴ)、茴香(ういきょう)、薄荷(はっか)などが加えられているようだ。酒からひき揚げた屠蘇散の滓(かす)を中門に吊るしておけば、病の気を避けることができると信じられていた。
しかし、こうした中国の屠蘇酒は、清の時代(17世紀初期)になって、頭脳(とのう)酒と呼ぶようになった。江蘇省、逝江省のような華中、華南は、華北に比べ古い習俗をよく残している地方だが、それでも屠蘇酒の風習はもうなくなっている。
一方、日本では現在、少なくなったといっても年末になると屠蘇袋が売られ、それを用いる家庭もまだかなりあるようだ。健康と家内の安全を願う、麗しい習わしである。
年酒して獅子身中の虫酔はす 飴山 實