七夕の変遷
五色の短冊に願い事を託して
酒の文化を知る - 酒の歳時記
7月7日の夜だけは川を渡って愛し合うことが許されたという織姫、彦星の伝説。平安貴族の七夕祭「乞功奠」(きっこうてん)は、現在も冷泉家に伝わる。今日では、マンションのベランダに飾られた笹竹に恋の成就から入試合格まで、マジックペンで書きちらした短冊がひるがえる。
著者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。
出典:「日本酒のこころとかたち」『酒販ニュース』醸造産業新聞社(1996年7月21日)より
織姫と彦星、愛の物語
「七夕」と書いてなぜ「たなばた」と読むのかと、不思議に思う人もいるかもしれない。日本には、その昔、人里離れた水辺の機屋(はたや)に棚をつくり、訪れる女神が機(はた)を織るという古代信仰があった。 飛鳥時代になると、この信仰に古代中国の牽牛織女(けんぎゅうしょくじょ)の伝説が加わった。天の川の東岸に住み、あでやかな天衣(あまのころも)を織っていた織姫(おりひめ)が、西岸に住む彦星(ひこぼし)を愛するようになった。父・天帝はそれを怒り、別れさせてしまった。それでも年に一度、7月7日の夜だけは、川を渡って愛しあうことが許されたという物語である。
恋ひ恋ひて 逢う夜はこよひ 天の川
霧たちわたり あけずもあらなむ
「霧よ、今宵だけは明けないようにしてあげて」と祈る古今和歌集の詠み人。やさしい日本人の心情が伝わってくる。
古式ゆかしい七夕のしきたり「乞功奠」
中国には、牽牛・織女の二星を、農耕と養蚕・染織をつかさどる星として、巧(たくみ)になることを乞ひ祀る(こひまつる)「乞功奠」(きっこうてん)とよぶ古くからの風習があり、これが平安時代、貴族の間でも行なわれるようになった。清涼殿(内裏の御殿のひとつ)の東庭に莚(むしろ)を敷いて机(き)を置き、酒、肴、果物、菓子などと共に、五色の糸を通した七本の針や布などを供え、夜通し香を焚き、燈明をあげ、織姫にあやかって、裁縫や機織(はたおり)の上達を祈る祭りであった。
その後、琴や琵琶なども置き、歌舞音曲などの技芸上達を願ったり、七つの硯(すずり)に、芋の葉に生まれる露を集めて墨をすり、梶の葉に歌を書いて、詩歌・文字の上達を祈るなど、次第に華やかなものとなっていった。
今も京都御所北隣の冷泉家(れいぜいけ)の行事として、袿姿(うちきすがた=平安時代の女性が上衣の下に重ねて着た服)に装った歌道の門人たちによって古式ゆかしく乞巧奠が行なわれ、座敷の南庭には「星の座」に供える品々が並べられる。
日本独特の七夕行事
さらに、「七日盆」(なぬかぼん)という祖先の精霊迎えの祓え(はらえ)の行事や、胡瓜や茄子を神の乗り物の馬や牛の形にして供え、田畑の収穫を神々に感謝する庶民の祭りがこれに加わり、日本独特の七夕行事が生まれた。
中世の宮中では、七夕にちなんで「七遊」(ひちゆう)と称し、「歌」「鞠」(まり)「碁」「花札」「貝合」(かいあわせ)「楊弓」(ようきゅう)「香」におよぶ七種の遊びや、七百首の詩歌、七十韻の連句、七調子の管弦などが催され、「七献の酒」を酌み交わして、天皇や公卿(くげ)たちも大いに楽しんだという。
五色の短冊を笹竹に吊るして
江戸時代になると、庶民の間には歌や願いごとを書いた五色の短冊や切紙細工を吊るした笹竹を、家ごとに飾るという風習が広まった。短冊の代わりに梶(かじ)の葉を使ったり、機織糸(はたおりいと)にみたてた素麺を食べるなど、いかにも楽しい、しゃれた祭りへと変身していった。
うれしさや 七夕竹の中を行く (正岡子規)
日本のこころとかたちを伝える行事や風習も、時の流れにつれ、人々の考えや生活様式の変化と共に変質していく。今や、高層マンションのベランダに飾られた笹竹には、恋の成就から入試合格に至るまで、ひたすらわが身、わが家の幸福を願ってマジックペンで書きちらした短冊がひるがえっている。