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冬至と新嘗(にいなへ) 一陽来復を祈り、新穀を感謝する古代信仰

冬至と新嘗(にいなへ)
一陽来復を祈り、新穀を感謝する古代信仰

酒の文化を知る - 酒の歳時記

一年のうち最も昼が短くなる冬至は、「日短きこと至る(きわまる)」を意味する。冬至の前後になると太陽の力が弱まって魂が一時的に仮死し、太陽の帰り来る「一陽来復」によって再びよみがえると考えられた。「冬至粥」(とうじがゆ)という習俗も、新穀感謝の祭に由来している。一陽来復を祈り、新穀を感謝する古代信仰は、大昔から日本人が米や酒、さらには人間そのものまで、大自然の一部であると信じて疑わなかったことと関連しているようだ。
著者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。

冬至(とうじ)

一年のうち最も昼が短くなる冬至。冬至とは「日短きこと至る(きわまる)」を意味する。古代人たちは、冬至の前後になると太陽の力が弱まり、人間の魂も一時的に仮死する。すなわち、陰極まれば万物みな衰えて死に、太陽の帰り来る「一陽来復」によって再びよみがえると考えた。
こうした原始的な信仰は、日本に限らず世界の多くの民族に共通したもの。一旦死にかけた太陽の復活を願って、「タマフリ」と称する鎮魂の行事が世界各地で行なわれるようになった。たとえば、炉の火を新しく替えることによって太陽を復活させ、人もまたこれで新たな生命力を得ようとした。現代に伝わっている「冬至風呂」もそうした民俗風習の一つ。再生した火で風呂を沸かし、新しい力を得た湯に柚子を入れ、その精によって、衰えた体に新たな生命の復活を念じた。
「冬至粥」(とうじがゆ)という習俗も、そのルーツは古代の最も大切な行事、新穀感謝の祭に由来している。古代人は、稲の穂を摘むことによって穀霊が一旦死ぬと考えた。そこで一家の主婦は田から稲や粟(あわ)の初穂を抜いて家に持ち帰ると、それを寝具にくるんで添い寝し、新しく生まれてくる稲魂(いなだま)のすこやかな生育を祈った。ついで、その新穀を臼(うす)に入れ、復活の唄を歌いながら杵(きね)で搗く。得られた白米を、火を新しくしたカマドで炊きあげる。出来た固粥(かたがゆ。今の普通のご飯)と、同じ米で醸(かも)した神酒(ミキ)を供え、それらを神と共に飲んだり食べたりすることが祭そのものであった。
これを新(にいなへ、にへ)と呼び、復活した新穀を自らの体内に入れることによって、新たな生命(いのち)を得ると信じた。また稲を「トシ」、年も歳も「トシ」と呼んで、神人共食による新しい年の活力のよみがえりを期待したのである。
このきわめて古い伝統をもつ民族の風習は、3世紀頃、王権の高まりと共に公的な行事として次第に儀式化されていった。

山田錦藪地区

新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)

皇極天皇の時代(642~644)になって、冬至の月である旧暦11月中旬の卯の日を新嘗(にいなへ)祭と定め、太陽の復活を祈る祀りと、豊かな実りを感謝する祭が合体された。また、毎年行なう祭を「新嘗祭」と呼び、新しい天皇が即位された際に行なう一代一回限りの大祭を「大嘗祭」(おおにへのまつり、だいじょうさい)として区別するようになった。大嘗祭は、天皇の即位に際し大嘗宮(カヤぶき、皮付き丸太を使った簡素な建物39棟)を新たに造営し、古式に則った儀式が夜を徹して厳かに行われる。
1874年(明治6年)以後、11月23日が新嘗祭の日と決められ、皇居ではその年の新穀を天神地祗(てんじんちぎ)に供する儀式が行なわれ、全国民もまた「五穀豊穰、天下太平を神祗に祈る」祭日と決められた。
戦後、こうした伝統ある祝祭日も新しい観点から見直され、1500年守られてきた新嘗祭の日は国民の祝日「勤労感謝の日」とされた。ただし皇居では、今も宮中賢所(かしこどころ、けんしょ)において一陽来復を祈り新穀を感謝する古代信仰の形のまま新嘗祭が毎年行なわれている。このことは大昔から日本人が米や酒、さらには人間そのものまで、大自然の一部であると信じて疑わなかったことと関連しているようだ。