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祇園祭

祇園祭と京の酒屋
大乱からの復興に逞しく立ち上がった京の町衆

酒の文化を知る - 酒の歳時記

9世紀後半の御霊会を起源とするこの祭りは、一時期中断されていた。15世紀後半、商いの中核となった「土倉酒屋」ら町衆が復活させ、きらびやかな祭りへと発展させた。
著者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。
出典:「日本酒のこころとかたち」『酒販ニュース』醸造産業新聞社(1996年8月21日)より

病魔退散祈願の御霊会が起源

京の夏は祇園祭に始まる。7月1日の吉符入(神事始め)に始まり、10日の神輿洗い、鉾立を経て、16日の宵宮、17日の山鉾巡行と、祇園囃子の音に乗って華麗な祭絵巻が繰り広げられる。

祇園祭の起源は、9世紀後半、洛中に大流行した疫病が午頭天王(ごずてんのう、素盞鳴命=すさのおのみこと)のたたりだとされ、天王を祀る祇園社(八坂神社)の御霊を、大内裏(だいだいり、天皇の住まいである内裏を中心に、周囲に御殿や官庁を配した一郭)の南にあった神泉苑(現在は二条城の南)に呼び寄せ、病魔退散祈願の御霊会(ごりょうえ)を行ったのが始まりとされている。その時、全国66の国の数だけつくられた鉾が現在の山鉾の由来だという。

病魔退散祈願の御霊会

町衆の中核となった土倉酒屋

12世紀中頃からは、武士が次第に力をつけ、王朝貴族は衰微の一途をたどり、祭りも中断されてしまった。14世紀になって、ようやく台頭してきた町衆は、戦渦の続く京の中で「室」(むろ、土を塗りこめて造った建物)を次々と建て「室町」を形成、都を商いの街へと変貌させていった。その中核となったのは「酒屋」で、彼等は高利貸の「土倉」(どそう)と一体化して「土倉酒屋」となり、「有徳(うとく)の人」と称されるほどの富を蓄えていった。
15世紀に入ると酒屋は室町、西洞院(にしのとういん)にとどまらず洛中いたる所におよび、その数342軒というほど繁盛するようになった。特に有名なのは、門前に大きな柳があった五条坊門西洞院の「柳酒屋」(やなぎのさかや)で、納める酒税は京の酒屋全体の24%にも達するという繁盛ぶりであった。

室町時代の大規模な酒屋跡▲室町時代の大規模な酒屋跡が京都駅の1キロ北で発見(2005年公開)、2150平方メートルの広大な敷地から、酒甕を置いた穴が200基以上発掘された。京の町衆の中核となった「土倉酒屋」が営んでいた

大乱からの復興に京の酒屋が貢献

15世紀後期、応仁の大乱が起り、都は再び廃虚になった。そんな中から町衆はたくましく立ち上がり、経済を復興させると共に、永い間途絶えていた祇園祭まで復活させたが、こうした活動にも京の酒屋たちは大きく貢献した。特に16世紀初頭には、一向一揆(いっこういっき)により幕府が一切の神事を禁じたが、京の町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし」と幕府の反対を押し切り、山鉾巡行を強行したほどである。

桃山時代になると、海外貿易で手に入れた豪華なゴブラン織や、あるいは綴錦(つづれにしき)、西陣織を山鉾の装飾に使うなど、時代を象徴するきらびやかな祭へと発展させたのである。

ゆくもまたかへるも祇園囃子の中   (橋本多佳子)