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山蔭神社

酒と宴
神事から酒宴へ、日本の自然風土の中で育まれた酒文化

酒の文化を知る - 酒の歳時記

日本の食の基本となる「米」を原料に、最も手間をかけて醸される清酒が神棚の中央に供えられる。料理や飲食の神様とされる山蔭神社のお供え物(写真:京都市勧業館・みやこメッセで開催の「京料理展示会」にて)。神事から酒宴へと派生する中で、そこにはいつも酒が介在し、四季の移り変わりの中で、嗜まれ酒の文化が洗練されていった。
著者:栗山一秀。1926年生まれ、月桂冠元副社長。

神事から宴へ

日本では酒というものは、もともと先祖の霊魂や、八百万(やおよろず)の神々をまつるたびに造られた。その祭りに集まった敬虔な人々にとって、酒は神々に献上し、神々と一緒になって飲むもので、決して一人で飲むものではなかった。また、酒に酩酊することで神がかりになり、神のお告げを人々に伝える人も現れた。 こうして、酒を造ること自体が神事となり、さらに神の嘗(な)めた酒を人々が共に飲み、神々に近づく「相嘗(あいなめ)の神事」が生れ、それが今も神社で行われる「直会」(なおらい)となって伝わっている。これが後世宴(うたげ)へと発展していった。「うたげ」とは、酒宴で手を打つことだったといわれるが、これも大切な神事であった。

3世紀初頭、中国の史書『三国志』「魏志東夷伝」倭人の項に「其ノ会同坐起ニハ、父子男女ノ別無ク、人性酒ヲ嗜ム」と記されており、当時の日本人は、中国人も驚くほどみんなで酒を飲んでいたようだ。何かというと山や海辺に集まり、男女が互いに歌を唄い合って交歓し、求婚も行ったという。この東アジア共通の習俗は、日本では「歌垣」と呼ばれ、奈良時代には「かがい」と呼ぶ宮廷の行事にまでなった。

「野弁当」「花見弁当」とも呼ばれる手提げの重箱▲江戸期の野立弁当で、「野弁当」「花見弁当」とも呼ばれる手提げの重箱。徳利2本と酒盃、枝垂れ桜を描いた重箱などをセットしている。花見など野遊びの際に携帯するもので、四季折々の旬の料理と一献の酒を組み合わせる仕組み。もともと貴族が宴に用いていたが、江戸期には町衆へと次第に広まっていった。縦12cm、横21cm、高さ21.5cm

宴の中の酒

春の宴は花見だけではない。「水口祭」(みなくちまつり)や「田遊び」、神の山への登山なども盛んに行われていたようで、各地の風土記には「遊楽」「宴遊」などの言葉がしばしば出てくる。

平安朝になると、宮廷貴族たちは、ことのほか詩歌管絃の遊びを好んだが、それは大抵酒宴を伴っていた。 11世紀初頭の『紫式部日記』には、藤原道長邸で催された後一条天皇誕生の祝い歌が自らの筆で記されている。

珍らしき 光さしそふ盃は
もちながらこそ 千代をめぐらめ

宮廷の女房たちも、貝合せを始め、絵合せ、物合せ、草花合せなど、優雅な遊びと芸術を生活の中にとけこませていった。詩人・大岡信によると、こうした貴族たちの美意識の根底には、常に「うたげ」があったのだと言う。

3月3日の節会には、庭を縫うように流れる遣水(やりみず)にうかべた酒盃が、汀(みぎわ)のところどころに座を占めた公卿たちの前へ流れてゆく。盃が自分の前を通り過ぎないうちに歌を詠みあげ、盃をとりあげて飲み干すといういとも風流な行事である。 これを人々は「曲水の宴」(ごくすいのえん)と呼んだ。もとはといえば、4世紀、中国の書聖・王羲之が始めた「流觴曲水」(りゅうしょうきょくすい)が起源、それを日本の風土と、日本人の美意識によって見事に再生された。

曲水の宴ばかりではない。春は花、夏は時鳥(ほととぎす)、秋は月、冬は雪という花鳥風月に恵まれた風土の中で、先人達が育て上げてきたすばらしい感性がいまも私たちの中で脈うち、日本の酒文化もきわめて洗練されたものになっている。